旅の人

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一日一日、刻一刻と生命の時間は削れていく。
だからこそ一分一秒も大切にして行かなければならない。
そう言ったのは誰だっただろうか。

窓際に寝転んで、空を流れゆく雲を眺める。日当たりの良いリビングは、ただ横になっているだけでも眠気を誘うような心地よい暖かさに満ちていた。
このまま眠ってしまいたい、まとまらない頭でふと思う。眠ってひたすら眠って、今ある現実が全て夢で、何もかもが無かったことになってくれたら、どんなに楽だろうか。
視界を少しでもずらせば、散らかっていた様々なモノの代わりに置かれた段ボールが現実へと導く。逃げるように視線を逸らす。逃げて、無かったことになって、この暖かなリビングでずっと暮らしていけたなら。どんなに幸せなことだっただろう。

思えばこの部屋をそんなに気に入って選んだわけではなかった。条件に合って、なんとなくしっくり来る。ただそれだけだった。
内見などする時間もない。おそらく建設中に撮影されたものであろう、サイトに載っていた一年前の写真を頼りにこの部屋を借りた。
住めば都とはこのことだろうか。改めて思う。どこまでも居心地が良くて、暖かくて。賃貸だけれども、ここはまさに自分の居場所だった。住み続けるほど、大事な場所になっていった。
転勤族である以上、ある程度の覚悟はしなければならない。一年が当たり前のように過ぎていく訳ではなく、来年の春にはもういられないかもしれない、という覚悟を季節が過ぎる度にしてきたつもりだった。それでも荷物の整理をするという建設的なことをしなかったのは、どこかその覚悟から逃げ出したかったからなのかもしれない。荷物を整理してしまったら、ここでの春はもう来ないかもしれないから。

バサバサッと大きな音がして、積み上げた本が雪崩を起こす。その音でハッとして現実へと戻る。見たくもない段ボール。しまう荷物で散らかった部屋。生活に必要なものが散らかっていた部屋が、引越し荷物の散らかった部屋になる。
そうなってしまったらもう、ここは我が家ではないのだ。どんなに居心地が良くても、環境が許してくれない。逃げたい。逃げ出してこのままここでの生活を続けたい。なのに、現実が許してくれない。
己の事情でも意思でもなく行われる転勤は得てして多大なストレスをもたらす。言うことを聞きたくない身体を頭が無理矢理に納得させて、機械人形のように動かしている。
本当に、ノロノロと動きの鈍い身体は人形そのもののようだ。それでもなんとか起こして、荷造りを再開する。
一日一日、段ボールは増えていく。ここでの残りの人生をカウントダウンするように。生命が削れていくように。
最後のひとつを詰め終わった時、ここでの生活は終わりを告げる。心の中も、空っぽになる。荷出しをしたら残るのは、いつも空虚だ。心の置き場も、居場所もない私。新しい場所を探して、決められた場所へと旅に出る。空虚を連れて旅路を往く。

新居での荷解き。それが終わったら、少しはこの空虚な心も埋まっていることを祈ろう。大事な場所との思い出に囲まれて、私は新しい居場所を探していく。次の荷造りの時には、ここも居心地の良い我が家であるように。

3/9/2023, 11:27:42 PM