『みかん』
美緒は、みかんの白い筋を取るのが嫌いだった。
面倒だし、手が汚れるので。
「みーちゃん、はい」
康太が剥いてくれたみかんは、筋がひとつもない。
几帳面で、優しくて、控え目な指先が、ほんの少し美緒の手のひらに触れた。
みかんを剥いてほしいと美緒が頼んだことはない。
勝手に、康太がやってくれたことだった。
側にいてほしいと美緒が頼んだことはない。
家が隣だったから、気付けば幼馴染としてずっと一緒に過ごしてきた。
「ごめんね。おれ、……ゲイなんだ」
17回目の冬。
困ったように笑った康太の白い息が消えていく。
「あたしこそ、ごめん」
なぜ謝ったのか、美緒はわからなかった。
なんとなく、予想していたことだった。
それなのに、いざ眼前に突きつけられると、心に氷柱が生えたかのように痛んだ。
「じゃあ、これからも………」
友達としてよろしく───その言葉は美緒の喉に引っかかって、結局かたちにならなかった。
美緒は、逃げ出した。
走った。
肺に冷たい空気が流れ込み、痛い。
───美緒は、男勝りな女の子だった。
───康太は、いつも美緒を「かっこいい」と褒めた。
「おかえりー」
家に逃げるように転がり込むと、母親の呑気な声が台所から聞こえてきた。
───少しでも、ほんの少しでも、チャンスがあるんじゃないかと期待した。
「あたしはバカだ」
リビングの床に崩れ落ちた美緒の目線の先には、コタツの上にみかんがいつもどおり無造作に転がっていた。
『クリスマスの過ごし方』
サンタは来ない。
母さんも帰ってこない。
クリスマスだからと言って、俺の1日が劇的に良くなるなんてことはない。
それは、俺が悪い子だからなんだろうか。
でも、とっておきの悪い子にも、クリスマスは免罪符を与えてくれる。
大して物が入っていないオモチャ箱から、スノードームを取り出して、机の上に飾った。
3年前のクリスマス、母さんの前の前の前の………とにかくずっと前の彼氏が買ってくれたスノードームだ。
俺なんかにも優しかったその人は、結局すぐに母さんと別れた。当たり前だ。母さんとあの人の気が合うわけもない。
俺に言葉をかけてくれたし、俺に笑いかけてくれたし、俺にモノを与えてくれた。
迎えに来てくれるなんて、夢は見ない。
たぶん、もう2度と会うこともない。
ただ、スノードームだけが俺を慰める。
スノードームの中で、雪に降られながらもサンタクロースはにっこりと笑っていた。
『イブの夜』
私にとって、クリスマスイブはクリスマスよりも大切な日だ。
チキンとシャンパン、ビーフシチューにバケット───そして、手作りケーキ。
私の手作りじゃなくて、夫の。
シュトーレンとか、ブッシュ・ド・ノエルじゃなくて、フルーツタルト。私が好きだと言ったから、毎年フルーツタルトだ。
「メリークリスマス」
私たち夫婦は、イブの夜にそう言い合う。
クリスマス当日は、ケーキ屋を営む夫はみんなのものだから。
でも、イブの夜は私だけの夫なのだ。
『福音』
おばあちゃんの家のインターホンは、あんまり使われていない。
そもそも、玄関のドアに鍵がかかっていない。
それを知っている近所の人や新聞屋さんは、勝手に玄関を開けて、「ごめんくださーい」とおばあちゃんを呼ぶのだ。
ドアにはベルがついているから、開けるとチリンチリンと音が鳴る。
おばあちゃんは少し耳が遠いから、「ごめんくださーい」と呼ばれるまで気づかない。
だけど、私にはベルの音が聞こえる。
それと、犬のクロにも聞こえるみたい。
ガチャン、チリンチリン。
チリ、ン、チリ……。
ベルの音が余韻を残す。その頃には、私とクロが玄関へ飛び出している。
誰か来た!と、クロと気持ちがシンクロする。
「ごめんくださーい」と、言わない人。
私が飛び出して来るのを待っている人。
「おかあさん!」
おかあさんが、迎えに来た!
あ、私っておかしいんだな。
そう思う瞬間は、何度経験しても心に穴が空いたような気分になる。
サークルの飲み会とか、親戚の集まりとか、バイト先での会話とか。
友情、恋愛、結婚、仕事、人生。
それらの話題になるたびに、私は少数派の立場にいる。
遊びに行こうと誘われれば暗い気持ちになる。
何を話したらいいかわからないから。
家でスマホでもいじっていたほうが楽しい。
そのうち良い人が見つかると言われれば虚しい気持ちになる。
自分がそうだったから、私も同じ感情になると信じ切っている人。悪意がないのは知っている。
知っているからこそ、私は端から違う生き物だったような気がしてくる。
公務員がいいとか、社会に出たらこうだとか言われるたびに脳みそが重たくなる。
皆が当たり前にやっていること、できる気がしないから。
どうしてそこまでして働いて生きていかなきゃいけないのか、わからない。
私が好きなことは、みんなにとってどうでもいいこと。
みんなが好きなことは、私にとってどうでもいいこと。
それを、知る由もない。
考えたことすらない。
私は、みんなとは全く違う生き物で、みんなと同じになれるように擬態して生きている。
そうなんだあ、って曖昧な返答。
失敗だったと悟るとき。
何が正解かすらわからない。
人が集まる、多数派と少数派が生まれる。
私は、いつも、少数派。
ひとりでいるより、ずっと寂しい。