向かい合わせ
日常に生まれる、ひとときの邂逅。
その人が私の向かいに座ったのはまったくの偶然だった。
一目見た瞬間、一気に視線を奪われた。
切れ長の瞳にすっきり整えられた髪。
体のラインにぴったり沿ったスーツはスタイルの良さが際立っていた。
向かい合っているけど視線は合わない。
私と彼の間では出たり入ったりと人々が行き交ってばかりだし、そもそも彼の視線はスマホの画面に注がれたままだ。
でもそれでよかったのかもしれない。
目が合ってしまったら、きっと私は耐えられない。
『次は◯◯駅〜、◯◯駅〜』
すいっと彼が立ち上がる。
油断していた。
自分が降りる駅がもう少し先だから、タイミングを逃してしまった。
言いたい。言わなきゃ。
今言わないと、絶対後悔するーーー。
「あの!」
振り返る彼。
「チャック、開いてますよ!」
言い終わった瞬間、プシューっとドアが閉まったのだった。
やるせない気持ち
仕事でアプリの動作確認とかある部署に異動になった。Androidしか持ってなかったからスマホ2台持ちにした。
動作確認自体は職場のテスト用iPhoneでもできたけど、古い端末だったし、触ることができるのは職場にいる間だけだったからこれじゃ慣れないなと。
ユーザーの気持ちを知るにはまずその端末を知らねば、そのためには自分で普段使いして慣れるのが1番だと思った。
そしてその判断は正解で、AndroidとiPhoneの違いがわかっていることは業務上でとても役に立った。iPhoneのことを使い込んでなければ理解できなかったであろうことがたくさんあったが、普段使いしていたおかげで滞ることなく職務をやり遂げられた。
ちょっとお金がかさんだけど、2台持ちにして本当に良かったと思った。
2台持ちになって1年半がすぎたころ。
スマホ2台持ちにしたことは上司にも伝えていたし、業務報告書の中でも私物iPhone,Android/社用iPhone,Androidと表記をわけていたし、口頭報告でも「〇〇(私の名前)の私物のiPhoneとAndroidでは」と何度も言っていた。
2台持ちアピールとかではなく、あくまでも業務における動作確認に用いた端末としての報告。どの端末で確認したのかというのはとても大事なデータだ。
そうやって私が2台持ちであることがすっかり部署には知れ渡って当たり前になったころ。
私がいつものように2台のスマホで動作確認をしていると、上司が心底驚いたように「スマホ2台持ちなの?」と問いかけてきた。
初耳だと言わんばかりのその態度に困惑する私。
「え、今ごろですか?」引きつった顔でツッコむ同僚。
「うん、知らなかった。2台持ちいいよね、便利だよねー」1人満足げに頷く上司。
もともと忘れっぽいところはある人であることはわかっていた。
だけどさすがに。
仕事の場、ミーティング中や業務報告で何度も言ったし、そもそも本人に直接伝えたこともあるはずなのに。まったく初耳みたいなその態度はなに。
この人はこんなに私のことに興味がないのだと。
部下のことを何も見ていないし話も聞いていないし覚えてもいない。
2台持ちを褒めてほしいとか努力を認めてほしいとかそういうこと以前の問題。私のこれまでの業務内容について何も聞いていなかったのだと。報告書にも目を通さず、業務にあたる私を見ていなかったのだと。
それが明るみに出たわけだ。
べつに上司のために仕事をしているわけではない。
だけども自分なりに懸命に、未経験の職種でありながらもできる限り努力してきた。
しかしそれを一切見てくれていなかった。
ものすごい脱力感。なんだろうこのやるせなさ。
認められたいとか報われたいとか、そんなことではない。
もうただひたすらにやるせない。
これからもこの人のもとで働いていかねばならないのかと思うと、泣きたくなるような、目の前が真っ白になるような、どうしようもないモヤモヤでいっぱいになってしまった。
海へ
上京して初めて海へ行った日。
驚いた。
私の知ってる海とは全然違う。
灰色の砂浜、散る波飛沫。
岩の多い足場。
潮の香りは確かにするのに
海へ来たという実感は湧かなかった。
白い砂浜に、穏やかな波。
愛犬の散歩がてら走り回った浜辺。
私の知る海はそんな姿で、
それが海の全てだと思っていた。
だけど、これも、海。
海は世界中どこにでも繋がっているはずなのに
なんだか全然違うものに見えた。
友人はこの海が当たり前だと言った。
私の海とは違う。
でも友人にとっての海はこれだ。
世界にはもっと違う海があるのだろうか。
私の知らない海も、空も、川や山も、
世界にはいっぱいあるのだろうか。
ぐるんと、世界が回ったような気がした。
裏返し
貴方の前では可愛く笑えない
目もそらしちゃうし、話しかけられてもそっけない返事しかできない。
せっかく手伝いを申し出てくれたのに、「いらない」ってつっぱねちゃった。
ウラガエシウラガエシ
ぜーんぶ ウラガエシ
好きだよ
大好きだよ
でも恥ずかしくて無理なの
気持ちとは真逆のことをしちゃうの
ウラガエシウラガエシ
鳥のように
鳥のように羽ばたいていけるならどんなに自由だろうか。
遮るものなど何もない空を飛んで、行きたいところへ行く。お腹が空いたら陸に降りて餌をとる。疲れたら休む。なんて自由なんだ。
だけどいったいどこへ行く?
果てしない空は終わりが見えないゆえにおそろしくもある。広大な空を1人で渡るのは途方もないことだ。
旅を共にする仲間がいれば楽しいかもしれない。でもそれは自由か?共に行動するということは相手の行動に制限されるということだ。
餌を取るにも休むにも、環境によっては難しい場合もある。降りた先が海かもしれないし砂漠かもしれない。氷の大陸かもしれない。好きな時に好きなタイミングで食事を得て休むのも簡単なことではない。
自由とは。
自由であるがゆえに果てなく心細く、孤独で、恵まれた環境に在れるとは限らない。
鳥のように空を翔けるか。
それとも鳥のように籠に収まるか。
わざわざ制限の中に身を置き、安全と満腹と快適な環境を得るか。
幸せは、人それぞれ。