午前四時。
朝と夜が曖昧なこの時間帯、僕は毎日散歩をしている。
季節によって差はあるが、とにかく夜明け前の空気は驚くほど澄んでいて、普段いかに淀んだ空気の中で生活しているのかを思い知らされる。
ルートはいつも変えることはなく、自宅を出たら真っ直ぐに海岸を目指して歩く。
「毎日毎日、ご苦労様。一緒に?うーん、まあそのうち…行けたら行くかな」
行けたら行くは、行く気がないって相場が決まっているものだと僕が返すと、妻はにやりと微笑んでいた。
僕が、なんとなくこの散歩を日課にすると決めた頃、妻は間違いなく続かないと思っていたようだった。
そんな彼女の予想を裏切り、僕はすでに二年もの間、この日課を継続していた。
「海は私も好きなんだけど、わざわざそんな早朝だか夜中だかわかんない時間から行く必要あるの?」
運が良ければとてもいいものが見れる。だから、この時間に行く必要はある、と僕は思っている。
散歩を始めた頃と今とでは、色んなことが変わってしまったのだけれど、その部分だけは僕の中で揺らいではいない。
気づくと目的地が見えてきた。徐々に、人や車が道を往来し、空が明るくなる兆候を見せている。
あとは少し坂道を登り、トンネルをひとつ抜けたら海岸が見えるはずだ。
「別に、夜更かししても早起きしても散歩してもいいけどさ、ちゃんとご飯食べて…私より長生きしてね。お願いだから」
一度、体調不良でも散歩をやめなかった僕を心配した妻に懇願されたことがある。子供扱いしないでくれよと、その時は軽く返していたものだった。
トンネルを抜けた時、光が差し込んだ。
今日は運が良かったみたいだと、水平線の向こうから顔を出す光源に目を細めながら呟いた。
僕はこの美しい光景に出会う為、毎日歩いている。
行けたら行くと言った君と、一緒にこの場所に来る機会を、僕は一生失ってしまった。
陽の光に照らされていながらも、僕はまだ暗がりの中で歩き続けている。
#暗がりの中で
「そろそろ、行かなきゃ」
彼女は席を立った。机の上には、コーヒーの入っていたカップが置かれている。気づかないうちに空になっていた。ミルクと砂糖は、手付かずのまま置かれている。
「久しぶりに話せて、楽しかった」
僕と付き合っていた7年前、彼女と喫茶店に行くといつも紅茶を頼んでいた。苦味が好きになれないという彼女を、僕はお決まりのように味覚が子供だとからかった。
「じゃあ、元気でね」
あの頃、僕は社会人で彼女は大学生だった。少しだけ歳上の僕に対して、余裕のある大人の男を期待していた。その時の僕には、求められる振る舞いをするだけの経験が足りていなかった。
「ああ、またね」
僕の言葉に彼女は返事せず、困ったように笑ったあと、こちらに背を向けて歩き出した。多分、もう会うつもりはないのだと思う。
今日会うことにしたのは、納得ができず心の奥に引っかかっていたものを、なんとか解消したかったのだ。
もう少し、うまく付き合えていたなら。
結局、当たり障りのない近況報告に時間を費やして、肝心の話はできなかった。
でも、彼女はどこかすっきりしたような表情で、振り返ることもなく歩いて行く。
あの頃と違う、彼女の凛とした後ろ姿から少しでも、懐かしい紅茶の香りを感じられたなら。
僕は彼女を呼び止めていたのだろうか。
#紅茶の香り