「そろそろ、行かなきゃ」
彼女は席を立った。机の上には、コーヒーの入っていたカップが置かれている。気づかないうちに空になっていた。ミルクと砂糖は、手付かずのまま置かれている。
「久しぶりに話せて、楽しかった」
僕と付き合っていた7年前、彼女と喫茶店に行くといつも紅茶を頼んでいた。苦味が好きになれないという彼女を、僕はお決まりのように味覚が子供だとからかった。
「じゃあ、元気でね」
あの頃、僕は社会人で彼女は大学生だった。少しだけ歳上の僕に対して、余裕のある大人の男を期待していた。その時の僕には、求められる振る舞いをするだけの経験が足りていなかった。
「ああ、またね」
僕の言葉に彼女は返事せず、困ったように笑ったあと、こちらに背を向けて歩き出した。多分、もう会うつもりはないのだと思う。
今日会うことにしたのは、納得ができず心の奥に引っかかっていたものを、なんとか解消したかったのだ。
もう少し、うまく付き合えていたなら。
結局、当たり障りのない近況報告に時間を費やして、肝心の話はできなかった。
でも、彼女はどこかすっきりしたような表情で、振り返ることもなく歩いて行く。
あの頃と違う、彼女の凛とした後ろ姿から少しでも、懐かしい紅茶の香りを感じられたなら。
僕は彼女を呼び止めていたのだろうか。
#紅茶の香り
10/28/2022, 7:30:11 AM