梅雨までも蒸発させる炎暑だと騒いでいるが、遺伝子レベルで拒絶するあの臭いを焦がせないようではまだまだである。暑苦しい夏と共にやってくる、腐った内臓と酸化した尿の臭いは、死ぬまで吐き気を催す。
夏場でもマスクするとは正気の沙汰では無いと言われようが、他人の視線なんかよりも、人間の体臭と香害で窒息したくない。いっそのこと。気温をもっと上昇させて、焦げた髪の毛の臭いが漂う夏にしてしまえばいいのに。
夏の葬列という言葉は、どうしてこうも響きが良いのか分からないが、酷暑と冷淡の対比を表しているのかもしれない。
(250701 夏の匂い)
たかが薄物一枚を引いただけで、内と外の空間が出来るのもなかなかに不思議な話だが、時折どちらが外と内なのか分からなくなる。
大方、私はカーテンに覆われていると思えば、そこは内だ。とは言え、どちらが安らかな内であろうが、恐ろしげな外であろうがそんなの一切関係無く、白いカーテンの隙間から手は現れる。
カーテンの境目というべきか、そこを白い指先がするりとすり抜け、青い血管が浮く手の甲を見せつけて、細い手首を軽やかに捻り、五本の指を鳥の翼のように広げて、真っ白なたなごころを露わにする。
手首より先はカーテンの向こうだ。微かに隙間から暗闇が覗き、ただただ手が影から伸びて浮いているようにしか見えない。なのに、カーテンの向こうには人間がいる、美しい白い手の生き物がいる、とにかく柔らかな暗闇をまとった たましいがいる。
そう私は信じて、自らの手を伸ばした。するりとカーテンの中にのめり込む。掴んだはずの手は無いが、カーテンの向こうに何かいる気配を指先で感じた。手招きをしてみた。唯一可愛いと言われた小さな爪で反射板よろしく光沢の交信をする。こんにちはと。返事はない。反応はない。生きていない。何も掴めなかった。誰も握ってくれなかった。
(250630 カーテン)
拾ったメモを広げたら、群青色の文字で埋まっていた。書き殴った文字が多いが、下の方には整った字で「血を冷ややかにせよ」と記されていた。「ああ、ごめん。ありがとう」とメモの落とし主は口早に言って、メモを掴んだ。冷静さを装っているようだが、指先が動揺に震えている。
「見ちゃってごめんね?」
「まだ途中のものを見せて悪かったね」
食い違う対話に2人は互いの顔を覗いた。メモの持ち主は、青く染まった手先を顎に添える。特に藍よりも濃い人差し指で自らの顔を上げさせて、視線を真っ直ぐに向けた。
「瑠璃色のペンでひたすら怒りを焚きつけているのさ。赤よりも熱い青黒いで全部燃やしたいんだよ」
私も?と相手に聞かれたので、私も貴方も全部と答えた。
(250629 青く深く)
中学生の頃、部活の終わりだったか。梅雨明けを告げる雨がざあっと降った。私と部員たちは、何とか部室に駆け込み、そのまま屋根の下で雨宿りをした。
短いひさしの内に雨が入り込むも、妙に温かった。雨粒が、黄金色に輝く夕陽の光をひとつひとつ反射する。目に刺すような鋭い光だったが、生命に満ち溢れる力強さがあった。校庭の側にあった常緑樹の黒い影が、その黄金色の光をより映えさせる。砂埃が舞う校庭から湿った土の匂いがし、部室の裏にある木々の群生地からは草木の青臭さが薫る。
虹色に輝く大きな雨粒を眺めながら、私は夏が来たと高ぶった。極彩色の雨が、灰色の空と雲を青空と真っ白な入道雲に洗い流す。
15年以上前は、梅雨明けの最後の大雨に清められて、夏を迎えていたが、今はそのような体験を何度も何度も味わっている。ただ、どれだけ篠突く雨が降ろうが、完全に汚れきった雲を洗い流せない。子どもの頃に見た虹色の雨は、夢の中にでも蒸発してしまったのだろう。
いつかは、その虹色の雨がおとぎ話となって、昔日本には春と夏を繋ぐ梅雨という季節がありましたとさ、とおばあちゃんになった私が語る日が来るかもしれない。
(250628 夏の気配)
‘I Cannot Drown’を観た時の衝撃はなかなかだったが、日本以外で育った者が人魚を食す文化を知った時の驚きには敵わないだろう。
人間が食した海洋生物は、まだ一割にしか満たないらしい。その九割にいたであろう人魚をわざわざ海から釣り上げて、まな板に晒して包丁で切り刻み、永遠の命を得られると信じながら食す。この日本人の人魚への食欲は、冷静に考えれば異常である。
果たして、魚好きが高じた結果なのか。人魚は食べられると聞いて、私はどんな味がするのか気になって仕方ないので、もう正気には戻れない。
‘I Cannot Drown’の制作者は、もしかしたら、この食文化を案外素直に受け止めたかもしれない。製作者の嗜好には、もともと人魚がいた。なるほど、世界にはウジ虫に寄生されたチーズが存在するぐらいだ。人魚を食す文化だってあり得るという考えに至った可能性もある。
ただ、人魚を食べたという結果には、さすがに東西の環境で異なるようである。
東洋の感性からしたら、毒を持つフグや人間並みの頭脳を持つイルカを食しても満たせない食欲の執着から逃れようと、人魚を仏に見立てて食べたとしたら、侘び寂びのような静けさに包まれて浄土に向かえると思いつくだろう。
西洋は、神の言いつけを破って、一部鱗やヒレのない生き物を食べたことに罪悪感を持つ。事実、作品の主人公ウメは、自らの分身たちに罪の意識を呼び起こすような言葉を吐かれた。彼女の延々と歩む道には、江戸時代の農村や現代の車道、新宿の街並みの他にも、神に通ずる門があるのかもしれない。
ともあれ、アンデルセンの描いた人魚が、東方では食用として扱われ、かつ不老不死の食材として重宝されていると知った時の衝撃は、その東方の地に住む私には想像つかない。その衝撃に揺れ動く世界は未知の領域だ。それこそ人魚の肉を食べて生き長らえても、永遠に辿り着けないだろう。
(250627 まだ見ぬ世界へ!)