‘I Cannot Drown’を観た時の衝撃はなかなかだったが、日本以外で育った者が人魚を食す文化を知った時の驚きには敵わないだろう。
人間が食した海洋生物は、まだ一割にしか満たないらしい。その九割にいたであろう人魚をわざわざ海から釣り上げて、まな板に晒して包丁で切り刻み、永遠の命を得られると信じながら食す。この日本人の人魚への食欲は、冷静に考えれば異常である。
果たして、魚好きが高じた結果なのか。人魚は食べられると聞いて、私はどんな味がするのか気になって仕方ないので、もう正気には戻れない。
‘I Cannot Drown’の制作者は、もしかしたら、この食文化を案外素直に受け止めたかもしれない。製作者の嗜好には、もともと人魚がいた。なるほど、世界にはウジ虫に寄生されたチーズが存在するぐらいだ。人魚を食す文化だってあり得るという考えに至った可能性もある。
ただ、人魚を食べたという結果には、さすがに東西の環境で異なるようである。
東洋の感性からしたら、毒を持つフグや人間並みの頭脳を持つイルカを食しても満たせない食欲の執着から逃れようと、人魚を仏に見立てて食べたとしたら、侘び寂びのような静けさに包まれて浄土に向かえると思いつくだろう。
西洋は、神の言いつけを破って、一部鱗やヒレのない生き物を食べたことに罪悪感を持つ。事実、作品の主人公ウメは、自らの分身たちに罪の意識を呼び起こすような言葉を吐かれた。彼女の延々と歩む道には、江戸時代の農村や現代の車道、新宿の街並みの他にも、神に通ずる門があるのかもしれない。
ともあれ、アンデルセンの描いた人魚が、東方では食用として扱われ、かつ不老不死の食材として重宝されていると知った時の衝撃は、その東方の地に住む私には想像つかない。その衝撃に揺れ動く世界は未知の領域だ。それこそ人魚の肉を食べて生き長らえても、永遠に辿り着けないだろう。
(250627 まだ見ぬ世界へ!)
終わりつぐならば
蓮開く音
わが唇から
鳴りひびきもがな
(250626 最後の音)
指先から生まれた一粒の愛にも血潮一トン分ある。
その舌足らずな舌先でよく舐りなさい味わいなさい。
(250625 小さな愛)
夜空を見つめた瞳の記憶はあるが、
青空を見つめた瞳の記憶は無い。
青空は私の目を溶かしてくる。
見つめれば見つめるほどに青白く溶けていく。
青空が私の瞳に溶けたいと願った。
痛くてかなわないと私は瞼を下ろした。
(250624 空はこんなにも)
夢を持たぬ子どもに人権は無い、そんな強迫観念染みた考えに洗脳されていたのかもしれない。
保育園、小学校、中学校の自己紹介の用紙に、将来の夢を書かせる欄が必ず印字されている。私の将来の夢は、始めは花屋だったか、その次はゲームクリエイター、そしてファッションデザイナーを目指したいと憧れていた。
ただ後々から、どの夢もつまらなくなった。人に仕事内容を伝えて共に取り組むという流れが嫌だった。子どもの頃から、とにかく一人で仕事をしたかった。
ただ一人で職務を全うするには、あまりにも器量も才能も体力もなかった。本当に夢のような話だ。第一、将来の夢を職業の言葉でしか表現できないのは、あまりにも苦痛である。
他にも夢があっただろうと、子どもの私に話しかけてみたが、大人になることが“夢”であって、その大人はいつも仕事をしているから、何か職を持たねば大人になれない、夢も無いでしょうと真っ直ぐな瞳で見つめてきた。何とも夢の無い話だ。
(250623 子供の頃の夢)