少し足先の窮屈な勉強机の前で唸り始めて、早三十分。今日の課題は、まだ終わりそうにない。
将来の夢について考え、調べるというだけの課題。それが、僕には酷く難しくて、どうにもできそうになかった。
夢が無い訳では無い。将来の夢はきちんとある。でも、それを書いて提出するとなると、どうしても勇気が出ない。
「…………どうしよ……」
何度も書いては消してを繰り返した紙は、もうよれてしまって、黒鉛の汚れが落ちきらなくなってしまった。提出しなければならないが、書けない、否、書きたくない。
僕は自分の夢に、自信が持てなかった。今よりもっと幼い頃は、なれるかも分からない、現実感さえ無いような夢を、嬉々として語れた筈なのに。今は、剰え自分の夢を恥じているのだ。
そんな僕だから、きっと夢は叶わないと決めつけて、勝手に一人で諦めている。そんなことは、分かっている。
前に、たった一人にだけ、夢を語ったことがある。その時、当然のように吐かれた一言で、僕は二度とこの夢を語れなくなった。
僕の夢は、世間的に見れば珍しくて、安定するかも分からない博打に近い。何度も諦めようとして、なのに胸の奥で燻ぶり続ける火は消えてはくれなかった。その火に焼かれ続けて、僕はずっと苦しかった。
皆と同じように、安定した、地に足のつくような職業だってたくさん調べた。なり方も、年収も。その中には、きっと世間一般では好待遇のものだってたくさんあっただろう。
でもやっぱり、どうしても。なりたいのだ。諦めきれなくて、みっともなく藻掻き続けている。震える手でもう一度シャーペンを握って、紙に向き合う。
僕は、こんな僕だからこそ。自分の思い描く世界が、自分の手で綴る文字が、好きなのだ。好きで好きで堪らなくて、諦めきれずにずっと立ち止まっている。
課題の紙の、名前の下。小さな四角い記入欄に、いつもより少し震えた、僅かな羞恥と確かな執着の滲んだ字で、小さく、薄く、たった二文字の夢をなぞった。
テーマ:夢を見てたい
ついこの間。姉の成人式があった。きらびやかな振袖に身を包み、旧友と再会したことを心底嬉しそうに、綺麗に化粧が施された赤い目元で笑んでいた。
それを、僕はどこか冷めたような、複雑な目で見つめていた。成人がそんなに嬉しいかと。
僕は大人になんてなりたくなかった。通学電車で見かける大人は、誰も彼も疲れ切った顔をして、微かな溜息を零しながら死んだ魚の群れのようにドアから出ていく。その澱んだ瞳を見ていると、どうしようもなく未来が不安になってくる。
僕らの世代は、心が弱いだの、協調性が無いだの言われる。しかし、本当は違うのだ。
心が弱く見えるのは、表面で見えている以上の重荷に怯えているから。少ない自分達の世代で、膨大な数の年寄りを支えるのか。自分達の子供は本当に自分達を支えてくれるのか。終わりの無い未来への不安が心から消える日は無くて、ずっと、心の杯に水は注がれ続けている。だから、少しのことで溢れてしまう。
協調性が無いのも、自分を守りたいから。本当は、誰より何より、誰かと一緒に居たがっている。けれど、この世界は僕らに個性を望む。どうせ皆一緒くたに扱って、同じ形に整える癖に。何か飛び抜けた取り柄がないと、誰も自分を知覚してくれないような錯覚に陥ってしまう。
未来が不安で仕方なくて、いっそこのまま、突然背後からこの心臓を一突きにされてしまいたいとさえ思う。そのまま喉笛を滅多刺しにでもされて、原形も残らないくらいぐちゃぐちゃになってしまえばいい。
今日もまた、死んだように生きている大人たちが町中を闊歩する。誰も彼も同じような服を着て、同じような髪型で。その吐息すら似通っていて、切り取られた個性は疾うの昔に失っている。
それが怖くて仕方ないのだ。大人になったら、僕も彼らのようになるのかと。自分より幼い子供たちに、同じ絶望を与える存在へと成り下がるのかと。
「……ああ、」
大人になんて、なりたくない。毎日のように部屋で零す言葉は、ずっとずっと、このままで、まだ甘えられる子供のままで居たいという、ささやかで、幼くて、到底叶わない願いだった。
テーマ:ずっとこのまま
俺は、生まれたときからずっと一人だった。
親の顔は知らない。街の人々には邪険に扱われ、俺の唯一の友人といえば、路地裏で一緒にゴミを漁るカラスやネズミ達だった。
そんな俺の嫌いなものは、冷たい目でこちらを見つめる大人、弱い者からさらに搾取してくる年上の少年たち、そして、冬。
冬はずっとずっと嫌いなのだ。あの、体の末端を凍らせて砕いてしまうような寒さも、少なくなる食料も。年末だとか言って浮かれる街並みさえ腹が立つ。
それは、大人になって財力を得た今も抜けなかった。今も、町中でクリスマスソングが流れると耳を塞ぎたくなる。雪が降り始めると、もう外に出られない。俺は、冬というものに対して、ある種恐怖症のようなものを抱いていた。
冬の寒さは、俺の体に隅々まで染み入ってきて、その血液ごと凍らせてしまう。布団はおろか屋根すら無い裏路地では、一度体が冷え切ってしまえば暖めるのは至難の業だ。子供の頃は、同じく凍える野良猫やカラスと身を寄せ合い、僅かな食料をネズミと分け合って生きていた。
だから、俺の身にはもう隅々まで寒さが染み込み尽くして、心まで冷えてしまった。誰かを助ける、誰かと過ごす。そういった人間的な行動が、極端に苦手になったのだ。
「ねぇってば!聞いてる?」
物思いに耽っていた俺の思考が、喧しい声に引き戻された。現実逃避のように過去に浸っていたのに、また無理矢理引き戻されて、そのきらきらとした、星の爆ぜるような光を宿した瞳に真っ直ぐ射抜かれる。
あまりに無垢で、あまりに無邪気は目は、俺にとって毒にも等しかった。
「……なんだ。」
「寒くない?さっきから顔色悪いからさ。コンポタ買ってきた!」
むに、と頬に温かい缶が押し付けられて、半ば強制的に受け取ってしまった。無言の訴えに負けて口に含むと、とろりとした黄色の液体が、優しい甘さを伴って喉を滑っていった。
「ね、おいしい?元気なさそうで心配なんだよね。冬、嫌い?」
太陽のような瞳に、さりげなく握られた手の温もりに、胃に落ちていく温かさに、俺の中に染み付いた寒さが解けていく。
血色感の無かった指先に、ふわりと桜色が差した。
「……ああ。……大丈夫だ。」
「え、笑った?今笑ったよね!?ちょ、も、もっかい!もっかいやって!今度は撮るから!」
「馬鹿か。」
目の前で騒がしく喋り続ける彼に、また緩みそうになった口元をそっと手で隠した。
あの冬の寒さは、もうどこにもない。
テーマ:寒さが身に染みて
「かんぱーい!」
田舎の片隅、古くて狭いアパートの一室。そこに置かれた小さなこたつに、いい年の男がぎゅうぎゅうになって座っている。
成人式で再会した、中学生時代の友人。せっかく20歳になったのだから、と、成人式会場から一番近かった俺の家に集って、ちょっとした宅飲み会をすることになったのだ。
誕生日当日に酒を飲んだ奴も少なくなくて、皆、不慣れながらもそれなりに自分のペースで飲んでいた。
そんな中。
「あれあれ〜?一人だけソフトドリンク飲んでるおこちゃまがいるな〜?」
酒精の匂いと浮かれた空気を纏った友人の一人が、少し赤らんだ顔で肩を組んでくる。うざ絡みにも程があるが、事実なので何も言えない。
そう、俺はまだ19歳。早生まれの俺は、皆に混じって酒を飲むこともできないのだ。
「あれ、飲まないの?」
「だってコイツまだ未成年じゃん?」
ぽんぽんと小馬鹿にするように頭を撫でられ、無性に腹が立つ。比較的酔っていない穏やかな友人の声さえ、酒を飲んでいるだけで無条件に癪に障った。
「そっか……あ、待って待って、いいものある。」
そう言った友人が鞄から取り出したのは、洋酒入りのチョコレート。そう、未成年でも、食べるだけならセーフである。
俺は床で潰れている酔っ払い共を避けてその友人の元に近寄り、チョコを貰って口に運ぶ。
噛み潰すと、とろりとした洋酒入りのシロップが溢れてきた。
舌と喉を焼くようなその感覚に、鼻を抜ける洋酒の香り。不慣れな味に、俺は思わず顔を若干顰めてしまった。
「……その感じだと、あんまり気に入らなかったみたいだね?」
にま、と友人が小さく笑う。前言撤回、穏やかだと言ったが、きっと彼も酔っている。
「あっははは!お前、あんな不満そうにしときながら結局子供舌じゃねーか!」
ゲラゲラ笑い転げる友人を軽口足蹴にしつつ、俺は一月後の誕生日、絶対酒を飲んでこいつらをぎゃふんと言わせてやる、と決意して、口の中のアルコールを流し込むようにオレンジジュースを呷った。
テーマ:20歳
夕方。寂れた校舎の3階、踊り場のすぐ横、廊下の奥に追いやられた教室が、僕らの部室だった。
部員は二人。僕らだけ。前は先輩が二人いたが、もつ卒業してしまった。後輩もいないので、僕らが卒業したらきっと廃部になってしまうだろう。そんな部活が、文学部だった。
文学部とはいえ、執筆なんて高尚な真似はしない。静かに本を読んで、ただ感想を共有して、たまにお菓子を食べて駄弁る。それだけである。なんともまぁ地味で、部活らしくない部活なので、入部が強制でない我が校においては不人気なのだ。
「……なに読んでるの。」
僕はひっそり持ち込んだ長座布団に寝そべって本を読みながら、なんとはなしに目の前で本を読む彼に問いかけた。僕と彼は本の好みが大分違うので、お互いあまり読まない本の話が聞ける。
「……ミステリー。」
僕は専ら純文学ばかり読むが、彼はミステリーや探偵ものなんかの謎解きが好きなのだ。僕はそういった思考が得意ではないので、推理しながら読める彼を少し羨ましくも思った。
「ふーん……」
ぼんやり、意識はあくまで目の前の文章に集中しながら生返事を返す。聞いているのかいないのか怪しい返事はもういつものことなので、彼も気にしない。
「……」
ふと、本を眺める彼の横顔を見上げる。彼の目は、夕暮れの光を反射して、鈍く金色に光って見えた。
「……なに?」
ばちりと目が合って、その目が緩く細められる。きゅう、と効果音が付きそうなその動きは、不意に僕の心臓を掴むには十分だった。
緩いカーブを描く金色の瞳は、彼のさらりとした黒髪によく映えて見えて、夜空に光る三日月のようだった。
「……なんでもない……」
それがあまりにも綺麗だったから、つい、月が綺麗ですね、なんて口走りそうになった。
静かな部室は、時計の秒針の音に支配されている。僕らの関係は、まだ動きそうにもなかった。
テーマ:三日月