「っ……もう知らないっ……」
バタン、とドアの乱雑に閉められる音がして、さっきまであった気配が消えた。やってしまった、と頭を抱え、冷静になろうと水を飲んだ。
初めは、ほんの些細な口論だった。彼の帰りが遅くなって、それに少しだけ腹を立てた俺がちくりと棘のある一言を言ってしまった。子供じみた嫉妬心からの、どうしようもない癇癪だった。
数年前に仕事で心を病んだ彼は、実家にも戻りたくないと言って俺の家に転がり込んできた。元々仲のいい幼馴染同士で、俺は仕事が忙しくて家事が殆どできていなかったからありがたいまであった。
そんな彼も最近は立ち直れてきたのか、以前は俺に任せていた買い物も一人で行けるようになり、短時間ならバイトもできるようになっていた。彼がまた俺の元から離れる日は近い。そんな焦りも、俺の心を蝕んでいたのかもしれない。
彼とのトークルームにメッセージを連投しても、返事は無い。既読さえ付かない。当然か、と溜息を吐いて、彼を探しに、俺はコートを雑に羽織った。
コンビニ、スーパー、公園、果てには路地裏まで、本当に隅々まで探した。けれど彼は居なくて、焦燥がじわじわと俺の心を苛んでいく。湿った溜息を一つ零して、微かな希望を持って家に戻った。
その希望は、案外あっさり叶った。玄関先に、彼らしくもなく雑に脱ぎ散らかされた靴。苦笑いしながら靴を揃えて、そっとリビングへ足を踏み入れる。そこには、クッションを抱いてソファの上に丸くなり、わざわざ寝室から持ってきたのか毛布に包まった彼の姿があった。
「…………ごめん。」
もふもふとした毛玉と化した彼を、後ろからそっと抱きしめて囁く。もぞりと彼が腕の中で動いて、子供っぽくむくれた顔がひょこりと覗いた。
「…………ケーキ。」
「買ってくる。」
「……洗濯。」
「一週間俺がやる。」
「……ん。」
どうにか許しを得て、安堵した俺は彼の肩口に頭を預けて大きく息を吐いた。
カチリ、カチリと秒針の音だけが響く、静寂のリビング。そこに横たわっていた喧嘩で張り詰めた緊張感が、静かに静かに、終わりを告げた。
テーマ:静かな終わり
旅に出る、ことにした。行き先も、目的も、特に無い。ふわふわと無意味に生きてきた僕の、ふわふわとした無意味な旅だ。
手提げのトランクケースに、必要最低限の荷物を詰め込む。お金を全て下ろしきって、分厚いそれをトランクの底にしまい込んだ。どれだけの期間出るかも分からない。ひたすらに、何か居場所が欲しくて、まだこの刺激的な世界を揺蕩っていたかった。
最寄り駅からでは味気ないので、少し歩くことにした。大きめのトランクは、町中ではそれなりに目立つ。旅立つには随分な軽装だが、僕はもうそんなことどうだってよかった。
最寄り駅から二駅歩いて、そこから電車に乗り込む。降り
たのは、名前もよく知らない、よく分からない山中の無人駅だった。周りには特に何があるでもなく、小さな集落がぽつりぽつりと点在している。それらを繋ぐ細い道を辿れば、ちょっとした大通りに出た。
大通りを伝って山を下ると、少し栄えた町が広がっていた。もう日も沈みかけていたので、何か宿でも無いかと歩き回ってみる。宿なんかなくたって、正直よかった。野宿だって、僕は別に厭わない。
結局、古びたホテルを見つけてそこに泊まった。よほど客が珍しいと見え、チェックインの手続きも久々なのか、店員側が不慣れだった。
清潔で管理の行き届いた客室は、しかしやはり埃っぽい淀んだ空気をしていた。窓を開け放てば、都会には無い、鳥の声と澄んだ静かな空気がふわりと流れ込んでくる。
ようやく息を吐けた気がして、上着もそのままにベッドに倒れ込んだ。これからどこに行こうか、どうやって移動しようか。何も決まらない。
多分、死んでもよかった。だから、山中で野宿するのだって別に厭う必要はなかった。あの灰色の都会で忙殺されて、没個性のまま消えたくなかった。
この田舎町の空気を吸って、騒がしい鳥の声を聞いて、僕は少しだけ、ほんのりと淡く色付いたようだ。透明だった僕に、薄っすらとした輪郭が生まれた気がする。
心のままに動くこの旅は、もう少しだけ続きそうだ。電話の鳴り止まない携帯は、嫌になって電源を切った。僕は、もう少しの間だけ、心のままに、穏やかに、海月のようにこの世界にゆったり流されていたかった。
テーマ:心の旅路
僕のおばあちゃんの家には、ある鏡がある。小さな、化粧用のコンパクトくらいの大きさの手鏡で、シンプルながら凝った装飾の縁取りがされている。そんな鏡には、不思議な力があった。
「ただいまー!」
両親共働きの僕は、おばあちゃんの家に住まわせてもらっている。バタバタと忙しない足音を立てて自室に戻ると、手早く部屋着に着替えて倉庫に忍び入った。
本当は、一人で勝手に倉庫に入ることは禁止されている。普段優しいおばあちゃんが、僕が勝手に倉庫に入った時だけは凄まじい剣幕で叱ってくるのだ。
「えへへっ……来たよ!」
手鏡を手に取って、鏡の中の自分の像に話しかける。すると、ついさっきまで自分と同じ動きをしていた像が動いて、手鏡の縁に寄りかかるような姿勢を取った。
「ん、おかえり。待ってたぜ。今日は何の話、してくれんだ?」
僕とおんなじ顔で、全然違う声がする。僕のよりずっと低くて、落ち着いた声。
「今日はね、飼育小屋のうさぎの話する!」
にこにこと笑う僕を、鏡の中の彼は緩く笑んで見つめていた。
両親は忙しいのであまり構ってもらえない、おばあちゃんも昼間は畑にいるのでそんなに話さない、学校に行っても友達はいない。そんな僕の、唯一の話し相手が彼だった。
しばらく話し込んでいると、そろそろおばあちゃんが畑から戻ってくる時間になった。
「あ、もう戻らなきゃ……また明日来るね!」
手鏡を元の場所に戻し、倉庫を後にしようとする。
「なぁ。」
ふと、呼び止められた。彼から僕に話しかけてくるのは珍しい。いつもは、精々僕の話に相槌を打つくらいなのに。
「鏡の場所が悪くてな。悪いが、もう一回置き直してくれないか?」
曖昧な笑みを浮かべて、彼が言う。傾いていただろうか、なんて思って、僕は深く考えずに手鏡を持ってしまった。
「冷たっ……」
思わず手を引こうとするが、その手は凍りついてしまったかのように動かない。
「やっと捕まえた。……これで、ずっと一緒、だな?」
そう笑った彼の顔を最後に、僕は冷たい何かの腕に抱き込まれて、鏡の中に引きずり込まれた。
後には、地面に落ちた手鏡だけが残っている。その鏡面は、まるで凍りついて霜でも降りたかのように、中を見せないとでも言いたげに、真っ白に曇って、もはや鏡としての機能を成してはいなかった。
テーマ:凍てつく鏡
はぁ、と町中に流れる軽快な音楽に似つかわしくないような、重たい溜息をつく。それはすぐに真っ白に染まって、俺の視界を一瞬だけ霞ませた。
辺りは人工的なギラギラした光を纏った木々に埋め尽くされ、その間を、腕を組んで密着しながら歩く仲睦まじそうなカップルが無数に歩いている。この場において一人で歩いているのなんて、俺くらいだ。
恋人がいないわけではなかった。これまでに数人とはお付き合いだってしてきたし、それなりの場数も踏んでいる。妹がいる俺は女の子の悩みや困りごとは大抵分かっているし、事前にそれを避けたり、手助けしたりもしてきた。それなのに、毎回振られてしまうのだ。それも、全く同じ理由で。
「優しすぎる」。それが、いつも俺が振られる理由だった。細やかなことにも気を配り、助けてくれるのは嬉しいが、付き合うには刺激が足りないのだと。そう言われていつも振られてしまう。
「……俺にどうしろって言うんだよぉ……」
ぼそりと泣き言を溢しつつ、甘ったるい恋愛ソングと楽しげな若人達の声にうんざりしながら、やたらと飾り付けられた家路を急いだ。
「ただいまぁ〜……」
ようやくあの羞恥の拷問が終わって、ガチャリとドアを開く。すると、目の前にモフモフとした何かが高速で飛び込んできた。
「ぐえっ……おい、シロ。飛び込むなって何回言わせるんだお前は……」
飛び込んできたものの正体、俺の飼っている白猫のシロを抱き上げて、リビングへ向かう。電飾の無い外は、月明かりと裸電球の街灯の光を雪が反射して、ぼんやりと白っぽく明るくなっている。
「はぁ……俺にはこのくらいが丁度いいのかもな……」
あの飾り立てられた木々よりも、この穏やかな雪明かりの方が、やたらと刺激を求める若い女の子よりも、この我儘で自己中な愛猫に尽くす方が、自分にとっては幸せなのかもしれない。
「…………でもやっぱり彼女欲し〜……」
ぼんやり明るい外に大きく溜息をつきながら、俺はシロの腹にもふりと顔を埋めて唸っていた。機嫌を損ねたシロに俺の顔面が引っ掻かれるまで、あと数秒。
テーマ:雪明かりの夜
僕にはある習慣がある。変わった奴だとか、幼稚だとか言われそうだが、僕自身はこれを辞めるつもりは無いし、これからもずっと続けていくだろう。
「今日もいいことありますように!」
家を出てすぐの、ちょっとした祠。何の神様が祀られているのかは、文字が掠れてしまって読めない。けれど、落ち葉に埋もれてボロボロだった祠がなんだか寂しそうで、掃除したのが始まりだった。それから僕は、毎朝小さなおにぎりとお茶を供えて、帰りに回収するのが習慣になった。たまに野生動物が食べているのか、おにぎりはなくなっている時もある。
今日はおにぎりにふりかけを振って、ラップで包んで供える。夏なら、後で食べられるように中々の工夫が必要だが、冬はその必要が無くて助かる。小さく手を合わせ、お決まりのセリフを唱え、学校へ向かう。この小さな祈りがどれだけ効力を発揮しているのかは分からないが、気分的になんとなく上がるので良しとしよう。
学校に着いて、席に着く。数人の友人と挨拶を交わして、今日の授業ダルいね、なんて他愛もない会話をして、そんな時間が当たり前に続くと思っていた。
昼下がり、眠気と戦いながら、気を紛らわそうと窓の外を見遣った。その時、気づいてしまった。グラウンドの真ん中に、ただ立ち竦んでいる存在に。初めは、生徒の一人が残っているのかとおもった。けれど、明らかに何かが違う。かくん、かくんと首を上下に振りながら、こちらを、見ている。この距離で、目線なんて分かるはずがない。けれど、何故か直感で理解した。目が合った。
きぃん、と耳鳴りがして、自分が何をしているのか分からなくなる。クラスメイトの騒ぐ声と、先生の怒声が聞こえた気がした。
バチンッ!
目の前が真っ白に爆ぜて、ふと意識が戻る。俺は窓をこじ開けて、窓枠に片足を掛けていたところだった。あと一歩、進んでいたら。そう思うと寒気がして、ガクリと膝から力が抜けた。
『迂闊に妙なモノを見るでない。……明日の飯は梅にしろ。』
ふと、耳元でそんな声がして、首筋にふわりとした何かが触れた気がした。
「……?」
帰宅して、あの祠のことを祖母に聞いてみた。あの祠は、お稲荷さんの祠だったらしい。あの時首筋に触れたふわりとした感触を思い出して、守ってくれたのかと、お供えは届いていたのだと、なんとなく心が温かくなった気がした。
テーマ:祈りを捧げて