僕のおばあちゃんの家には、ある鏡がある。小さな、化粧用のコンパクトくらいの大きさの手鏡で、シンプルながら凝った装飾の縁取りがされている。そんな鏡には、不思議な力があった。
「ただいまー!」
両親共働きの僕は、おばあちゃんの家に住まわせてもらっている。バタバタと忙しない足音を立てて自室に戻ると、手早く部屋着に着替えて倉庫に忍び入った。
本当は、一人で勝手に倉庫に入ることは禁止されている。普段優しいおばあちゃんが、僕が勝手に倉庫に入った時だけは凄まじい剣幕で叱ってくるのだ。
「えへへっ……来たよ!」
手鏡を手に取って、鏡の中の自分の像に話しかける。すると、ついさっきまで自分と同じ動きをしていた像が動いて、手鏡の縁に寄りかかるような姿勢を取った。
「ん、おかえり。待ってたぜ。今日は何の話、してくれんだ?」
僕とおんなじ顔で、全然違う声がする。僕のよりずっと低くて、落ち着いた声。
「今日はね、飼育小屋のうさぎの話する!」
にこにこと笑う僕を、鏡の中の彼は緩く笑んで見つめていた。
両親は忙しいのであまり構ってもらえない、おばあちゃんも昼間は畑にいるのでそんなに話さない、学校に行っても友達はいない。そんな僕の、唯一の話し相手が彼だった。
しばらく話し込んでいると、そろそろおばあちゃんが畑から戻ってくる時間になった。
「あ、もう戻らなきゃ……また明日来るね!」
手鏡を元の場所に戻し、倉庫を後にしようとする。
「なぁ。」
ふと、呼び止められた。彼から僕に話しかけてくるのは珍しい。いつもは、精々僕の話に相槌を打つくらいなのに。
「鏡の場所が悪くてな。悪いが、もう一回置き直してくれないか?」
曖昧な笑みを浮かべて、彼が言う。傾いていただろうか、なんて思って、僕は深く考えずに手鏡を持ってしまった。
「冷たっ……」
思わず手を引こうとするが、その手は凍りついてしまったかのように動かない。
「やっと捕まえた。……これで、ずっと一緒、だな?」
そう笑った彼の顔を最後に、僕は冷たい何かの腕に抱き込まれて、鏡の中に引きずり込まれた。
後には、地面に落ちた手鏡だけが残っている。その鏡面は、まるで凍りついて霜でも降りたかのように、中を見せないとでも言いたげに、真っ白に曇って、もはや鏡としての機能を成してはいなかった。
テーマ:凍てつく鏡
12/28/2025, 7:43:45 AM