本日のテーマ『泣かないで』
母さんを泣かした時は正直いってかなり心にきた。
あれは確か反抗期真っ只中の15歳くらいの中学生の頃、理由は忘れたけど「うるせーんだよ!」と母さんを突き飛ばしたことがある。
軽く押しただけなのに吹き飛んだ母さんに驚くと同時に、「え、なんで、そんなことするの?」と口に出しては言わないが、そう言いたげな母さんの驚愕と悲しみに満ちた表情を見た俺は、一瞬にして体が石のように固まったのを覚えている。
何も言わずしくしくと泣く母さん。
その姿を見て俺は酷く心が痛んだ。あの頃の俺は、自分のイライラの原因をなんの非もない母さんにぶつけることでしか発散できなかったのだ。
逃げるように二階の自室に駆け込み、鍵をかけて籠城する。
しばらくすると兄ちゃんが二階の窓から侵入してきて「お前が悪いんだろうが、母さんなかせんなよ、お?」とヤンキーみたいに俺をボコボコにする。
それから少し後、夕食を食べていない俺に弟が気を遣って俺の部屋の前にお供え物のようにお菓子を置いてくれる。
そして、母さんが俺の分の夕食を部屋の前に置いてくれる。
『ごめんね』という手紙つきだ。全面的に俺が悪いのに、被害者に謝られると余計に心にくる。
俺は今でもあの時の天ぷらうどんの味を覚えている。
反抗期は誰しもあるが、度がすぎると自分にも両親にも心にモヤモヤを残す形になるので気を付けてほしい。
あと『泣かないで』で印象深いのは……
やはり兄ちゃんの息子、ハルくんであろう。つまり俺の甥っ子にあたる存在だ。
お盆や正月に帰省して出会うたびに年々、大きくなっていってるのを感じる。俺はなんの変化もないのに、子供というのは1年合わないだけで身長も見た目もずいぶん印象が違う。不思議なものだ。
で、そんなハルくんと一緒に初詣に行って、その帰り、デパートに寄る。
普段一緒にいない叔父さんという存在の俺に懐いてくれているハルくんは俺にべったりくっついてくる。
なので必然的に俺が面倒をみる。
「はーー!」と俺のみぞおちに正拳突きを叩きこんでくるハルくん。乱暴なところは兄ちゃんそっくりだ。結構、効く。
「ぐっ、ハルくん……そういうことしたらあかんよ……」
優しく諭す。が……
「おいちゃん! お菓子あったよ! これおいちゃんの分」
二人分の知育菓子を取ってきて俺に渡すハルくん。優しいところは義姉さん譲りだ。が……
「駄目だよ、今日は皆でお寿司食べるんだからお菓子はなしだよ」
「あとで食べたらいいよ?」
「いや、だめだよ。今日はお菓子かったら駄目な日だから。トーチャンとカーチャンのとこ行こう」
そう促すと‥…
「……う……うわああああああああああああ!!」
もの凄い勢いで泣きだす。これがまた凄い。
何事か!?と辺りの人が一斉に俺を見る。俺は慌てふためいてハルくんをあやす。
「おー、おー……どうしたん、大丈夫だよ~~」
ちっとも大丈夫じゃない。なんならあやしてる俺も子供連れ去り犯みたいに見られて怪しまれてるんじゃないかと不安になる。
『もうこれ以上、泣かないでくれ~』と願いながら口にする。
「わかったわかった、おっちゃんが内緒で買ってあげるから」
とたん、スっと泣き止むハルくん。
「ガシャポン……」
ついでとばかりにガシャポンもせがんでくる。そういう厚かましさは隔世遺伝で俺に似たのだろうか?
「うんうん、ガシャポンも後でやろう」
なにはともあれ、泣いている子供というのは最強だ。
そして、その子供を毎日相手に出来る親も最強だと思う。
『終わらせないで』
昔から物事の終わりが嫌いだ。
たとえば……
俺だってお正月やお盆に帰郷し、高校時代の友達と集まって飲み会をする時もある。
話す内容はお互いの近況報告から始まり、最終的にはこの前もその話しただろうって感じの昔話に落ち着く。
「トモ(友人のあだ名)のアレ、めっちゃおもろかったよな。調子のって市井(高校時代のクラスメイトのヤンキー)に体当たりして骨折したやつ。爆笑の渦やったやん」
「あははは」
「あったあった」
「なはは、やめろって」
盛り上がっているが、実際はトモくんが体育でバスケットをやっている時にヤンキーとぶつかって転んで骨折して本気で痛がっていたので皆心配になってザワついてお通夜のような空気になってしまったのだが。思い出は美化されるものである。
まぁ、そんな感じでくだらないよもやま話に花を咲かせ、時間が過ぎ……話のストックも尽き……
誰が口にしたわけでもないのに、いつの間にかお開きの空気になってくる。
「あはは」
「なはは」
「ははは」
「へへ……」
みんな酒を飲んで良い感じに酔っぱらって、誰も話題を振らなくなり、顔を突き合わせて意味もなく笑いだけを交わすようになったら潮時だ。
「いや~今日は楽しかったわ」
「最高やな」
「あはは」
「また連絡するわ」
そしてゾロゾロと店を出て、片手を挙げて挨拶し、別れる。再会するのはまた半年か、一年後か、それか数年後。気分次第だ。
皆と別れた後、宴の終わりって感じでとてつもない喪失感に苛まれる。
俺は思う。
まだまだ話したいことがあったのに『終わらせないで!』
今年の正月は皆でまた集まることができるだろうか。
俺は幹事とか仕切るのは苦手なので、りっくん(高校時代の友達でグループのリーダー格)次第だけど、また皆で集まって飲めたら、話のネタが無くなっても粘って二次会的なものに皆を連れていこうと思う。
終わるのは悲しいから。
『太陽の下で』
日の光を浴びると『セロトニン』という脳内伝達物質が分泌され、リラックス効果やストレス解消、睡眠の質の向上などの効果が期待できるという。
眉唾だ。が……
実体験から物申すと事実だと思う。
日の光を浴びるとやる気が出て来るし、眠気も吹き飛ぶし、理由は不明だが元気な気分になってくるからだ。
実際、日照時間が短い海外の国などでは、疑似日光のような蛍光灯の光で日光浴をする人たちもいると聞く。
それだけ『太陽の下で』生きるということは大事なことなのだ。
だがどうだ。俺は出かける時に太陽の光を少量浴びるくらいで、ほとんどの時間は太陽の光を遮る建物の下で仕事をしている。帰る頃には日が沈み始めているし、帰ってからは蛍光灯の下で生活している。
それなのに健康だ。
前言撤回。日の光が体にいいなんて嘘ばっかりだ!
いや嘘だ。健康じゃない。
明らかに心が弱っているのを最近は特にひしひしと感じる。
人は何か問題が起こった時に理由を探したくなる。
俺の場合、それが日の光だった。
たしかに一時期、無職だった時、毎朝日の光を浴びて散歩していた時はかなり体調とメンタルがよくなっていくのを感じていた。
実際、それでバイトしようかってなったわけだし。
でもそれは単純に仕事というストレスから解放されて気楽になっていただけなのでは?とも思う。
俺は物事を難しく考えるのが苦手だ。考えれば考えるほど、最終的に陰謀論やスピリチュアルな傾向に走りやすい性格だからだ。よって自重しているのだ。
(まぁ、検索結果のAIがそういうくらいだし、そうなんだろうか……)
このようにメディアに踊らされやすい性格でもある。
で、でも、生物の大半は朝起きて、日の光を浴びて生活し、夜には眠る生活を送っているのだから、きっとそれが正しいのだと思う。
もちろん少数派を否定しているわけではない。俺はそんな排他的な人物ではない。人には人の生活リズムがあるだろう。
ただ、朝日を浴びながら歩くと、やる気がわくのはあると思う。プラシーボかもしれないけど、朝の散歩はオススメだ。
かくいう俺はずっとやってないけど。
今日のテーマ『夫婦』
ほんのちょっと前のこと、というか11月10日の夜、母さんがSNSの家族専用チャットコーナーに写真つきのメッセージを送ってきた。
普段よほどのことがないと便りのない人なので、なにか親族によくないことでもあったのだろうかと不安になった俺は慌ててメッセージを確認した。
すると……
異常な程に朗らかな笑みを湛えた父さんがピースサインをして、足湯に足を浸けている写真がそこにあった。
俺は思った。
(これは、なんだ……? どういう状況?)
と、そこで家族ラインのメッセージ欄が更新された。
「そういえば今日結婚記念日だっけ。楽しそうでなにより」
そうコメントしたのは俺の兄だ。
(ああ、なるほど。それでか)
俺は納得した。11月10日は父さんと母さんの結婚記念日だったのだ。11月10日と書いて語呂合わせで『いい人』と読む、覚えやすいでしょと昔から母さんが言っていたのを思い出す。
きっと結婚記念日だから父さんと母さんは二人で出かけていたのだろう。それで出先で撮った写真を家族に向けて送ってきた、と。
納得できた。が……
「どういう状況?」
メッセージを送信する。聞かずにはいられなかった。
こんな、にこやかな顔をしている父さんは今まで見たことがなかったので気になったのだ。
そしたら母さんから二枚目の画像が送られてきた。
それは緑色のソフトクリームを片手に、帽子をかぶってやはり微笑んでいる父さんの写真だった。
続けざまに今度は父さんから、どこかのお土産屋か旅館の軒先に展示されていると思わしき、ありえんくらいどでかいタヌキの置物の写真が送られてきた。
間髪いれずに弟から場所もわからぬ山頂から撮ったと思われる荘厳な山並みの風景が送られてくる。
そしてそれに負けじと兄ちゃんも、自身の子供の写真を添付しだす。
はっきりいってカオスな状況だ。全員、自己主張が激しすぎる。俺の家族は調和という言葉を知らないのか。
そう思いつつも仲間外れにされるのも嫌なので、俺は俺でここ最近で一番面白く感じて思わず写真におさめた『健康マジャーン』と書かれた店の看板の写真を送ってみた。
「皆も元気そうでなにより。父さんと母さんは温泉に行っています」
と、母さん。
「いいね、ごゆっくり」
と、兄ちゃん。
「俺も連れてけ~」
と、弟。
俺の渾身のおもしろ画像はさらっとスルーされた。悔しいので会話のイニシアチブを握ろうと試みる。
「いいなあ。どこの温泉?」
聞いて、ついでに変なネコが首を傾げているお茶目なスタンプもつけてみる。
「どこの温泉でしょうか?」
と、父さん。クイズ形式できた。
「有馬」
「草津」
クイズ大会が始まってしまった。ついていけない。俺はソッとSNSを閉じた。
スマホを机に置いて、ふう、と息を吐く。
しかし、いつも無愛想で「うん」とか「ああ」しか言わない印象の父さんが、母さんと二人きりだとあんなふうに笑うんだなと思うと少しおかしくなる。
俺も無愛想だけど、気を許した人の前では、父さんのような笑顔を見せられるように努めようと思う。
『どうすればいいの?』
現代社会を生きる社会人の一人として、不測の事態に陥った時にスマートかつ迅速にアクシデントを解決できるように常日頃から備えておくべきである。
そう、イメージトレーニングだ。
少し前のこと、コンビニのレジに並んだら、何があったのか事情は分からないけど店員さんがお客さんに強く叱責されていた。
「頭おかしいだろ!」
言って、激昂した様子のお客さんが店員さんにレジ前のお金を入れるトレイを投げつける。
よく行くコンビニで顔見知りの店員さん(話したことはないけど)がヒドイ目にあっているのを見た俺は、反射的に口走った。
「……いい加減にしろよ! みっともないヤツだな!」
しかし、何も起こらない。当然である。前述の台詞は俺の心の中で呟かれたものにすぎなかったからだ。
結局、俺は自分の順番が来るまで俯いてジっと待っていることしかできなかった。我ながら情けない。
と、嘆くだけならば誰にでもできる。なので、せめて反省し、次に生かさなければならない。
さて、ここでイメージトレーニングの出番だ。
コンビニで店員さんがお客さんに怒鳴られている。怒られている理由は不明。手は出されていないが、トレイは飛び出した。さて、どうする?
パターン1。
「あのー、へへ、なんかあったんすか?」
ヘラヘラしながら声をかけてみる。
「お前には関係ないだろうが!!」
怒鳴られる。
「へへ、すません……」
ヘラヘラしながら引き下がる。
ダメそうだ。
パターン2。
「……まぁまぁ、よしましょうよ」
温和な感じで刺激しないように声をかけてみる。
「なんだよ! お前には関係ないだろうが!!」
やはり怒鳴られるだろう。
「関係ありますよ。俺だって並んでるし買い物しにきてるんですから。邪魔なんですよ、アンタ」
「なんだとぉ~!!」
といった感じでたぶん掴みかかられる。
「なんだよ~!」
といった感じで俺も掴みかかる。
「お客様、おやめください!」
店員さんの制止を無視して弱そうな二人の争いが始まる。事態が余計に面倒くさいことになる。
ダメそうだ。
パターン3。
ここは公的機関に頼るべきだろう。
「あのー、大丈夫ですか? 警察呼びましょうか?」
心配してる感じを装いつつ、そっと店員さんに訊ねる。
我を忘れて激怒しているお客さんに対しても、冷静さを取り戻させる言葉だし結構いいと思う。どうだろう。
「いえ、大丈夫ですよ」
しかし、きっと店員さんはそう返すだろう。怒っているお客さんもギロリと俺を睨んできそうだ。
「あ、ああ、そうですか、じゃあ……」
なにが「じゃあ」だというのか、言って俯いて黙る俺。
ダメそうだ。
ダメだ、ダメだ、ダメだ。全部ダメだ。
イメージトレーニングしたところで正解が出てこない。
うるせえーーってお客さんをぶっ飛ばせばいいのか? そんなことをしたら俺が警察にしょっぴかれるだろうし、そもそもカウンターくらってこっちがぶっ飛ばされるだろうし、そんな度胸もないし。
こういう問題をスマートに解決できる頭の良さもないし、相手を刺激しないように話を聞く話術スキルもないし、どうすればいいというのか。
本当に、マジで、こういう時『どうすればいいの?』
やっぱり関わらないのが正解か?
でもそれだと一生モヤモヤする。なんなら10年後でもこの時の自分の情けなさを覚えていそうだ。