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9/10/2024, 3:41:08 PM




 縋りついて咽び泣きたい衝動があったはずだった。
 自分の真ん中を通る芯に穴が空いている感覚。地に足をつけて生きているはずなのに、今にも膝から崩れ落ちそうな瞬間が絶え間なく繰り返される。
 前へ進むことも、立ち止まることも、振り返ることも怖かった。立つことも、座ることも、横たわることも。目を開いて、耳を澄ませて、息を吸って吐いているこの状況が許せなかった。
 大きな悲しみに明け暮れていたはずだった。

 何もかもがどうでもよくなった。
 聞こえてくるニュースも、SNSの文字の羅列も何の情報も頭に入ってこなくなった。
 自分が失ったのは、かけがえのない大切なものだけだった。
 それなのに、今の自分には何もなかった。感情も感覚も感性も。何もかも抜け落ちて、中身空っぽの人を模った物体だった。ふとした瞬間、君の影を追っては無意味だと後から気づいて、涙が頬を伝うだけの怪しい物体でしかなかった。

 もう人間に戻れる気がしなかった。



『喪失感』

9/10/2024, 6:17:35 AM

 世界に一つだけ
 あなただけの
 特別な
 オリジナル
 他にない
 唯一無二
 残り一点
 完全受注生産
 数量限定
 季節限定
 期間限定

 この機会を逃すと二度と出会えないかもしれない。
 私が心惹かれてしまう売り文句。


『世界に一つだけ』

9/9/2024, 8:14:23 AM

 静まれ静まれ
 お願いだから私の心静まって

 あなたに会うたび
 いつも胸の内で唱えてる


『胸の鼓動』

9/8/2024, 4:02:45 AM

「いいか、よく見とけよ」
 父は真剣な顔つきでそう言った。次の瞬間、出来立てホヤホヤのたこ焼きに鰹節を掛けたのだ。
 鰹節はたこ焼きから放たれる大量の湯気に煽られて前後左右に揺れた。大きく揺れる様はまるで踊っているようにも見えた。
「これはな、父さんじゃないと出来ないからな」
 自慢げに笑った父の手が、その時だけは魔法の手に思えた。



「うーわ、変なこと思い出した」
 焼きうどんに、仕上げとして鰹節を今まさに掛けようとした瞬間だった。冷蔵庫にあるものをテキトーに切ってうどんと炒めただけの手抜き焼きうどん。玉ねぎともやしの比重が大きくなり、もはや野菜炒めと変わりない仕上がりだ。
 休日の今日、ダラダラ一日を過ごしているうちに外へ出かける気力がなくなったから家にあるものでご飯を済ませようと思い料理した。一人暮らしだとテキトーにご飯を作ったところで誰も咎めないから気楽でいい。
「あー、命日墓参り行けなかったからか。祟られたかな」
 キッチンの後ろに飾っているカレンダーを見やる。先週の水曜日に印がついていた。
「来週行くか」
 私は気を取り直して焼きうどんに鰹節を掛ける。焼きうどんの湯気に当てられて激しく揺れる鰹節をぼんやりと見つめた。今では私の手が魔法の手だ。



『踊るように』

9/7/2024, 1:31:22 AM

--現在の時刻は午前八時二十六分です。

 アレクサから告げられた時刻に、私はパニックに陥った。枕元に置いてあるスマホを手に取って画面の明かりをつけると、アレクサに言われた通りの時刻が表示された。今一分進んで八時二十七分である。
 私の頭の中は混乱して真っ白になっていた。就業時刻は午前九時。家から会社までは電車で約三十分。家から最寄りまでは走っても五分はかかる。
 完全に遅刻だ。
 とにかく体を起こして洗面所へ駆け込んだ。ボサボサの髪の毛を雑に結いて洗顔し、歯を磨いた。磨きながらスマホで電車の時間を調べると、いつも利用する経路が赤く染まっていた。電車が遅延していたのだ。
 SNSで遅延の状況を確認すると、人身事故で三十分以上の大幅な遅延らしい。毎朝繰り返される遅延にうんざりしていたが、今日は救われたらしい。
 上司には電車遅延で遅刻すると連絡しよう。
 口をゆすいで水気を払い、洗面所を出て部屋へ戻った。床に座って化粧道具をテーブルの上にかき集めながら、握りっぱなしのスマホを見た。画面を表示すると、先ほどより五分進んだ時刻とともに日付が映った。
 九月七日 土曜日
 私は自分の目を疑った。一度暗くなった画面を再度明るくする。そこにはやはり九月七日土曜日と表示されている。
「なんだ、休みじゃん」
 一気に肩の力が抜けていくのがわかった。どうりでスマホのアラームが鳴らないわけだ。休みの日だから設定してないのだ。
 社会人になって十何年経つけれど、いくつになっても寝坊は焦るんだな、とぼんやり考えているとくう、とお腹が鳴った。そういえばまだご飯を食べていない。
 せっかくだから少し手の込んだ朝食にしよう。私は立ち上がってキッチンへ向かった。冷蔵庫を覗きながらコップ一杯の水を飲んでいると、手の中に収まっていたスマホが鳴った。
 画面を見ると、友達からメッセージが届いていた。

--ごめん、電車遅延してるから遅くなりそう
--まだ家だけど

 続けて手を合わせて謝る動作のアザラシスタンプが送られてきた。私は再び真っ白になった頭の中の記憶を辿る。

「アレクサ、今日の予定は?」
--本日は午前十時に友達と壁画前集合です。
「アレクサ、今何時?」
--現在の時刻は午前八時四十三分です。

 壁画前までは電車で十五分程度。でも休日ダイヤで電車の本数が減っていることと、遅延のことを考えるともうすでに間に合わない可能性が高い。
 私はコップを片付けて、部屋の真ん中にあるテーブル前に座り、慌ただしく化粧をし始めた。
 片手間でスマホに指を滑らせ、友達にごめん今起きたと大嘘のメッセージを送り、シマエナガがひたすら謝るスタンプを連打することも忘れずに。



『時を告げる』

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