--現在の時刻は午前八時二十六分です。
アレクサから告げられた時刻に、私はパニックに陥った。枕元に置いてあるスマホを手に取って画面の明かりをつけると、アレクサに言われた通りの時刻が表示された。今一分進んで八時二十七分である。
私の頭の中は混乱して真っ白になっていた。就業時刻は午前九時。家から会社までは電車で約三十分。家から最寄りまでは走っても五分はかかる。
完全に遅刻だ。
とにかく体を起こして洗面所へ駆け込んだ。ボサボサの髪の毛を雑に結いて洗顔し、歯を磨いた。磨きながらスマホで電車の時間を調べると、いつも利用する経路が赤く染まっていた。電車が遅延していたのだ。
SNSで遅延の状況を確認すると、人身事故で三十分以上の大幅な遅延らしい。毎朝繰り返される遅延にうんざりしていたが、今日は救われたらしい。
上司には電車遅延で遅刻すると連絡しよう。
口をゆすいで水気を払い、洗面所を出て部屋へ戻った。床に座って化粧道具をテーブルの上にかき集めながら、握りっぱなしのスマホを見た。画面を表示すると、先ほどより五分進んだ時刻とともに日付が映った。
九月七日 土曜日
私は自分の目を疑った。一度暗くなった画面を再度明るくする。そこにはやはり九月七日土曜日と表示されている。
「なんだ、休みじゃん」
一気に肩の力が抜けていくのがわかった。どうりでスマホのアラームが鳴らないわけだ。休みの日だから設定してないのだ。
社会人になって十何年経つけれど、いくつになっても寝坊は焦るんだな、とぼんやり考えているとくう、とお腹が鳴った。そういえばまだご飯を食べていない。
せっかくだから少し手の込んだ朝食にしよう。私は立ち上がってキッチンへ向かった。冷蔵庫を覗きながらコップ一杯の水を飲んでいると、手の中に収まっていたスマホが鳴った。
画面を見ると、友達からメッセージが届いていた。
--ごめん、電車遅延してるから遅くなりそう
--まだ家だけど
続けて手を合わせて謝る動作のアザラシスタンプが送られてきた。私は再び真っ白になった頭の中の記憶を辿る。
「アレクサ、今日の予定は?」
--本日は午前十時に友達と壁画前集合です。
「アレクサ、今何時?」
--現在の時刻は午前八時四十三分です。
壁画前までは電車で十五分程度。でも休日ダイヤで電車の本数が減っていることと、遅延のことを考えるともうすでに間に合わない可能性が高い。
私はコップを片付けて、部屋の真ん中にあるテーブル前に座り、慌ただしく化粧をし始めた。
片手間でスマホに指を滑らせ、友達にごめん今起きたと大嘘のメッセージを送り、シマエナガがひたすら謝るスタンプを連打することも忘れずに。
『時を告げる』
テレビドラマで見たピンク色に輝く巻貝に憧れて、初めて海を訪れた時には一生懸命探した。小学生になったばかりの頃だと思う。
ツルツルしたものを拾っては貝殻のかけらだったから、落ち込んだ私はポイっと投げた。
もう少し右かな? もっと海の近くかな?
拾っては落ち込んで投げる、そんな動作を繰り返していたら母に投げ捨てるなと怒られた。怒られたことが怖くて、結局私はピンク色の巻貝を見つけることなく浜辺を後にした。
今思うと、ドラマ演出でピンク色に染めていると察することができるけど、そもそもピンク色の巻貝って存在するのだろうか。一体どんな餌を食べていれば貝殻の色がピンクに染まるのだろうか。
裏の裏まで答えを探さないと納得できない、嫌な大人になってしまったと自分でも思う。
『貝殻』
夢中になっているの姿、額を伝う汗の結晶。名前を呼べば弾ける笑顔でこちらを振り返る。
繊細な宝石でも、夜空に輝く星や月でも、燃え上がる太陽でも。君の前では全部霞んでしまうのだ。
そのくらい、君が眩しい。
『きらめき』
他人よりほんのちょっと神経質で
慎重に一歩を踏み出すような性分でして
異動のたびに元々所属していた人たちでできた
空間の"違和感"にならずにいち早く馴染むため
どんなに細かいことでも確認は怠らない
例えが難しいけど
ゴミの分別が細かい、だけでなく
燃えるゴミはここ、プラスチックはあっち、
綺麗な紙はそっちで回収、
段ボールは下の階に置く場所がある、
個人情報の部分だけシュレッダー、
シュレッダーかけたものは毎月燃やす日が決まってる、
と全部聞かないと落ち着かない
大抵は笑って「どっちでもいいよ」と言われるけど
そういう人ほどマイルールや上司ルールに従って
守れない人は常識がないと罵るから
自分の役割が果たせるように
どんなに些細なことでも知っておきたい
『些細なことでも』
どんな惨めな目に遭っても、どれほどの侮辱を受けても。僕は決して引き下がらなかった。
ここで揶揄する連中に背を向けてしまえば、負けを認めて逃げるも同然だと。
連中の思い通りにはならない。僕は強い。
意地汚くてちっぽけなプライドだけを胸に、君の隣を歩んでいた。
世界を敵に回しても、君のそばから決して離れない。
僕の心は炎が燃え上がるように熱くなった。向かう所敵なしだと思っていた。
君がいなくなった日。
燃え上がる炎が跡形もなく消え去った。灰すら残らなかった。
僕の心ごと失った。
『心の灯火』