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3/29/2024, 5:06:06 AM


「この前、二人で帰ったんだって?」
 理子が紙パックジュースのストローを噛みながら、ニヤニヤと聞いてきた。
 ようやく風の強さが和らいできて、ポカポカ陽気に身を包まれるようになった今日この頃。春休みに入ってからほとんど毎日部活をしに学校へ通っていた。入学式の翌日に新入生歓迎会と称して部活動紹介をするからだ。
 私と理子は吹奏楽部に所属している。私はホルンを吹いていて、理子は曲によってエレキベースかコントラバスを弾いている。部員数は二学年合わせて二十人弱いるけれど、選曲の幅やコンクールの出場を考えると、新入部員は多く獲得したい。だから部全体が力を入れているのだ。
 朝からパート別練習中に顧問の内田先生が回ってきて、ものすごくしごかれた。反省点が多すぎて落ち込んだまま、束の間のお昼休憩に入った。学校内なら基本どこで食べてもいいから、私と理子はいつも何となく同級生が集まっているラウンジに来てはいるが、結局二人でベンチに座り食べていた。
「二人でって何?」
 話の状況が掴めなくて聞き返してしまった。理子はニヤニヤした目をそのままに、ズズッと紙パックのジュースを啜った。
「この前の雨の日! 武藤くんと相合傘で帰ったんでしょ?」
 私は努めて冷静に話を聞こうとしたけれど、武藤くんの名前が出てきて思わずむせてしまった。
「ちょっと大きな声で言わないで!」
「ベタだけど。アンタの方が大きいよ」
 理子は飲み切ったジュースの紙パックを潰して、ビニール袋の中に入れた。捨てるときに分別するから袋の口は緩く縛るらしい。中身が溢れないか私の方がハラハラしている。
「帰ったの?」
「帰った」
「どうだった?」
「あの、引かない?」
「言われないと分からない」
 理子はわざとらしくスマホを取り出した。SNSをチェックするフリしてこちらの出方を窺っているのだ。
 私は近づいて、周りに聞こえないように注意して言った。
「いい匂いした」
「きも」
 理子の鋭い発言に撃沈した。でも本当のことである。
 あの日の出来事をざっくり理子へ伝えると、きゃあと黄色い歓声をあげた。
「よかったじゃん。距離縮まって」
「それ全然良かったって思ってなくない?」
「思ってるって」
「ホントに?」
「だって、超幸せそうな顔してるよ。恋する乙女って感じ」
 可愛いなぁと私の腕を肘で突いてきた。私は勢いに押されるまま、顔に手を当てて隠した。顔に出やすいと自覚している。話しただけでこんなに照れて恥ずかしい思いをしているんだから顔が真っ赤に違いない。
 理子は思いの外楽しかったのか、それとも面白かったのか、私の体を大袈裟に揺らし始めた。私はなすがままである。ただし、膝の上に広げたままのお弁当箱はしっかり手で押さえた。まだ少しおかずが残っているから溢すわけにはいかない。
「ねーえー! いつ付き合うのー!?」
「まだ無理だって」
「相合傘しておきながら、アンタ、付き合ってないなんて!」
 理子の言葉には苦笑いしか返せなかった。

   *

 午後から雨が降ったあの日。私と武藤くんは駅前の本屋に寄るために一緒に帰ったのだ。武藤くんはラノベの新刊を、私は好きなファッション雑誌を買いに。
 並んで歩くには傘が邪魔だった。会話していて非常に遠く感じる。でも濡れる方が嫌だったから、私は仕方なく折り畳みの傘を広げた。そこで後ろから「あ、」と声が聞こえたのだ。
「傘、持ってたんだ」
「え、うん。予報見たし」
「そっか」
 武藤くんは形の綺麗な眉毛をこれでもかというくらいに下げた。最近整えたらしく、可愛らしい顔に磨きが掛かっていた。
「え、何? 何かあった?」
「いや、別に、うん。なんでも、ないっていうか」
 歯切れが悪い言い方をする。はっきり言ってくれないことに少しムッとした。
「ちゃんと聞きたい」
 私は一旦傘を閉じた。近くへ寄ると、武藤くんは明らかに動揺していた。「あー」とか「うー」とか言いながら視線をウロウロ動かしている。やがて、大きな目が私に向けられた。
「僕、声大きくないし。でも、坂本さんと話したいから。その、あの、傘。僕の大きいし。いっ、一緒に、いかが、でしょうか」
 だんだん声が小さくなっていき、最後の方は聞き取るのが大変だった。顔も耳も真っ赤にしていたのに、目は私から離れなかった。少し潤んでいるけれど、意志の強い瞳に見つめられて胸が高鳴った。私は無意識に頷いていた。
 武藤くんは途端に嬉しそうに笑った。持ち手が黒いビニール傘をパッと広げて私との間に真っ直ぐ持ち上げた。しとしと降る雨の中、私たちは本屋までの約十分をゆっくり歩いた。
 相合傘は私が思い描いていた以上に距離が近かった。一つの傘に濡れないように入るから、体がほとんど密着している。右隣の武藤くんを必要以上に意識しないようにしていても、熱が、匂いが、どうしても過剰に反応してしまう。
 傘は頭上を覆うように被さるから、声も響いて聞こえる。低すぎず高すぎず、優しくて柔らかい口調の武藤くんの声が私の耳に届いた。多分私の耳は赤かったに違いない。
 それでも傘に降り注ぐ雨の音量に負けてしまう時があって、お互いに顔を近づけることが何度かあった。武藤くんはどう思ったか分からないけれど、私は終始ドキドキしっぱなしだった。
 徒歩十分という距離は本当にあっという間だった。ゆっくり歩いていたのに、結局すぐ辿り着いてしまった。
 店先の屋根に入り、武藤くんが傘を閉じている間にハンカチタオルで濡れた場所を拭いた。でも私は鞄くらいしか濡れてない。なんでだろうと思って武藤くんを見ると、彼の右肩が濡れていたことに気がついた。傘を私の方に傾けてくれていたんだ。
 武藤くんは濡れた右側が気になるのか、水を払うように腕を振っていた。私はそっと近づいて、自分のハンカチタオルを彼の右肩に当てた。
 ビクッと体を震わせて、離れようとした武藤くんの腕を取った。彼は勢いよくこちらを振り返った。
「ごめんね、濡れちゃったね」
「いや、あの、全然」
「私ので申し訳ないけど、使って」
「えぇ!? いや、でも、坂本さんは」
「大丈夫、武藤くんのおかげで濡れなかったよ」
 ありがとう、と伝えると、キョトンとした表情を浮かべていた。まるでそんな気遣い、最初からしてませんという顔だった。私は、無意識だろうと武藤くんの優しさにキュンときているわけだが、果たして本人の意図はどうだったのか。私は答え合わせする日が来るのだろうか。
 あらかた水滴を払って、店内に入った。本に詳しい武藤くんはあれやこれやと作品や著者について語ってくれた。正直半分も理解できなかったけれど、キラキラした目で好きなことを語る武藤くんは可愛かったし輝いていた。今度、武藤くんがハマっているラノベを貸してくれることになった。楽しみが一つ増えて嬉しい。
 目的は達成して、本屋を出たら解散した。電車の時間もあるからすぐ帰ることになったのだ。武藤くんなら、そこからマックへ行って駄弁るとかなさそうと思っていたからイメージ通りだった。
 改札を通って、駅のホームへ降りる前に立ち止まった。武藤くんとは反対方向の電車だから、ここでお別れだ。
「今日はありがとう。じゃあ、またね」
 名残惜しいけれど、そんな気持ちには蓋をして手を振った。
「あ、うん」
 武藤くんは、手を振り返してくれた。それだけだと思っていた。
「僕、今日、楽しかった。ので、また、その、誘ってもいいですか?」
 あ、まただ。
 ジッとこちらを見る武藤くんと目が合った。
 髪を切る前は、オドオドとかビクビクとかして俯いているイメージだった。でも最近、髪を切ってから目が合うようになって、気がついたことがある。
 武藤くんの目は、彼の意思や感情が浮かんでいる。口下手で吃ってしまう彼にとって、目は口以上に重要な意思表示をしていた。
 私はどうやら、彼のその強い眼差しに弱いらしい。また頷いていた。もちろん、提案自体は願ったり叶ったりだけれど。
 彼は、私が頷くと決まって嬉しそうに笑う。この時も例に漏れず、周りに花でも飛んでるんじゃないかというくらいに大喜びしていた。
「じゃあまた!」
 今日一番の大きな声で彼は言って、これまた大きく手を振りながら駆け足で去っていった。こんな姿誰かに見られたら、普段教室にいる武藤くんとはイメージが違いすぎて驚愕しそうだなと思った。

   *

 理子に対してあまり詳しく話せなかったのは、この武藤くんがレアすぎてもったいないと思ってしまったからだ。まだ、私だけしか知らない姿であってほしい。そう思ってしまった。内緒にし続けるのは難しいだろうから、ほんの少しの間だけのつもりだ。
「クラス替えの前に告白してくるんじゃないかなって思ったのに」
 理子はつまんなそうに呟いた。私はようやく揺さぶられなくなり、残りのおかずに手をつけた。
 武藤くんとは連絡先を交換していない。SNSも繋がっていないから、春休みに入ってから音沙汰がなくなった。このまま四月になれば早々にクラス替えがあるから、一緒のクラスになれるか分からない。その後もコンクールがあって、受験シーズンに入って。あっという間に時間が経過する中で、武藤くんはどのくらい一緒にいてくれるかも分からない。
 そもそも告白されていないし、私からもしていないのだ。この前が偶然一緒に帰ることができただけだ。それが、今後も起こるとは限らない。
 でも、武藤くんの目を思い出すと、雄弁に語られているように思えてしまうから不思議だ。多分あの雨の日から何かが始まったような気がする。もしかしたら私の願望混じりの憶測に過ぎないかもしれないけれど。見つめられると、自分じゃいられなくなる。
「悠長に構えてたら、武藤くんもっとモテて他の子と付き合うかもよ」
「そうだね」
 理子の言葉を肯定しておきながら、心の中ではそんなわけないと思っていた。武藤くんは駆け引きとか色んな女の子にアプローチするとか、多分できない人だ。あれほど分かりやすく態度に出ているのに、これで私を好きじゃなかったらとんだ詐欺師だ。
 理子の言う通りなら、彼の気持ちが変わったということだと思う。その前に告白して付き合ってしまえばいいのだろう。ただ、私から告白するのは、なんか、その、癪である。
 どうしたらいいのかと考えていたら予鈴が鳴った。私たちは慌てて片付けて、音楽室へ急いだ。午後からは合奏だ。またしごかれると思うとゲンナリしてしまう。間違えないように集中しなきゃと自分を奮い立たせた。
 忙しくしている間にも猶予はなくなっていく。今は春休み明け、武藤くんに会えることを祈るしかない。自分の膝に乗せたホルンをギュッと握った。



『見つめられると』

3/27/2024, 2:45:05 PM

 膝をついて腰を折り、首を垂れる。

 【私はあなたとどこまでも共に】

 藪でも茨でも地獄でも着いていきます。

 たとえ私の心にナイフを突きつけられていても。


『My Heart』

3/27/2024, 5:54:18 AM

どんなに願ってもないんだもの
ないもの同士、補い合いましょうか

『ないものねだり』

3/25/2024, 4:18:59 PM

 朝早起きして
 身支度を整えて
 満員の通勤電車に揺られて
 上司の顔色を窺って
 部下の失敗をカバーして
 理解したくないハプニングに見舞われて
 帰りが遅くなって
 電車逃して
 帰宅したら家事をして
 気が収まるのはベッドに入ってからで
 よせばいいのにスマホ見て
 睡眠時間はどんどん削れていって

 世の中こんなに好きじゃないことで
 生活が成り立っていて
 好きなことを忘れさせてくる

 好きじゃないのに偉そうで余計に嫌になる
 そのうち好きなことを嫌になってくる

 ちゃんとやるから
 好きなことを好きな気持ちのままやらせてよ


『好きじゃないのに』

3/24/2024, 3:07:54 PM


 相合傘って、肩が濡れている方が惚れているらしい。
 何年か前のSNSで知った話だ。相手のことを濡らしたくないって思いで傘を傾けるからだそうだ。
 雨が降り出すと、やったこともない相合傘に思いを馳せた。

 午後から雨予報だった今日は、五時間目の最中に降り出した。さっきまでは眩しいくらいに快晴だったのに。お昼休み頃から雲行きが怪しくなった。
 私は六時間目の授業が始まる前にスマホを取り出した。天気予報のアプリを開くと、現在地の情報が入ってる。夕方五時に雨は止むそうだ。
 窓の外でしとしと降る雨を見上げた。どんよりとした曇り空を見て、本当に止むのだろうかと思ってしまった。
 傘は持ってきている。青い水玉柄の折り畳み傘でお気に入りだ。でも少し小さめで腕や足元が濡れてしまうのが難点だった。可愛いしお気に入りだけど、制服が濡れちゃうのは嫌だ。
 だから放課後、教室に残って勉強しながら雨が止むのを待とうと考えたのだ。

 SHRを終えて清掃班ではない部活組が駆け足で教室を出た。清掃班は週替わりで回ってきて、今週は私のいる班だった。出席番号順に振り分けられているから、席替えしてもメンバーは変わらない。
 机と椅子を動かしながら埃を掃いていく。早く終わらせたいという部活組からの圧が強いので、終始無言だ。三十人程度の教室は、たった五人の生徒であっという間に綺麗になった。
 教室掃除は床の掃き掃除しか言われていない。一応机の上を雑巾で拭いているけど、五人分の箒がなくて、手持ち無沙汰の私が何となく罪滅ぼしでやっているだけだ。それもあっという間に終わってしまった。
 水洗い場で雑巾を洗って教室に戻ると、ちょうどゴミ捨てする人を決めているところだった。皆真剣にジャンケンに挑んでいるけど、あいこが続いているようだ。
「ゴミ捨て、私行くよ」
 私は手を挙げて大きく声を出した。ジャンケンをしていた四人が一斉にこちらを向く。四人のうち、松本さんが口をすぼめながら話し始めた。
「そう言って昨日も一昨日も三波さんが行ってた」
「私部活ないし、他にやることないし。全然気にしないけど」
「私たちは気にするの!」
 松本さんの言葉に各々頷いていた。私は肩をすくめた。部活に入ってないし、バイトも先月で辞めてしまったから放課後暇なのは本当である。でも四人は、特に言い出しっぺっぽい松本さんは納得しないのだろう。
「じゃあゴミ箱二つあるから、一つは私。あとの一つを誰か手伝ってくれる?」
「えー! しょうがないからそれで妥協してあげる」
 松本さんは不満そうな声を上げたが、今日のところは納得してくれたようだ。
 ゴミ捨て場は校庭からも校舎からも体育館からも離れた場所にあるから、部活組は大抵面倒臭がる。去年のクラスは正にそうだった。私はバイトの日だけ時間に追われていたから逃してもらえた。けど基本部活に入っていない子が班とか当番とか関係なく手伝っていた。
 今年のクラスは責任感の強い子が揃っている。部活も行きたいけど掃除も大事。面倒臭いことも決まりだからやる。去年のクラスメイトに見習ってほしいくらいだ。
 果たしてジャンケンの勝敗はついた。唯一パーで負けてしまった武藤くんとゴミ箱を持って教室を出た。松本さんを含む他のメンバーは部活へ向かった。「明日は二人免除だから!」という声には曖昧に笑って誤魔化した。
 こうして武藤くんと並んで歩くと、少し緊張してしまう。武藤くんとは去年も同じクラスだった。長い前髪で顔半分くらい隠れていて、常に俯いている印象だった。特別何か会話があったわけでもなく、ただのクラスメイトに過ぎなかった。
 そんな武藤くんに最近何か心境の変化でもあったのだろう。ある日突然前髪が短くなった。さっぱりと整った髪型は、武藤くんの可愛らしい顔立ちをより引き立てていた。アイドル顔負けのイケメンで私はビックリした。これはすぐにモテるだろうなって思った。何なら今、隣を歩いていてドキドキしてしまう理由もここにあると思う。
「あ、雨だった」
「あ、傘」
 昇降口に着いて傘を持っていないことに気がついた。私は教室に戻れば折り畳み傘があるけれど、今から戻るのも時間がかかってしまう。
 濡れないように靴を履き替えてゴミ箱を持った。武藤くんも同じ考えなのか、黒に白と赤のラインが入ったスニーカーに履き替えていた。
「いく?」
「いける?」
 お互いに空を睨みつけながら言葉を交わした。雨は小雨よりも霧雨に近いほど、細かく降っている。傘を差すか迷うくらいの雨だ。
 私たちは何の掛け声もなく、でも同時に走り出した。走るとより冷たい雨を感じる。
 ほんの数秒、息が上がる前にゴミ捨て場に着いた。屋根がついているところまで駆け込んだ。髪の毛が思ったより湿ってしまったかもしれない。でももしかしたらすぐ雨足が強くなるかもしれないからゆっくりはしていられない。
 ゴミ箱を空にしたら、そそくさとその場を離れた。行きと同じく駆け足だ。後ろから武藤くんも着いてきている。行きより早く、昇降口に着いた。短距離とはいえ全力疾走したためか、私は肩で息をしていた。
「あー! 疲れた!」
 思わず声を上げた私に、武藤くんはビクッと体を震わせた。驚かせてしまったようだ。謝ったら少し笑われてしまった。笑った顔を初めて見たからドギマギしてしまったのは内緒だ。
 靴を履き替え、教室へ向かった。武藤くんは息が上がっていないようだ。平然と階段を登って私の先にいる。私もなんとか登りきって、武藤くんの後を駆け足で追った。
 教室に戻ると、一人だけポツンと残っている人がいた。
 坂本さんが、机の上に鞄を置いてスマホを見ていた。バタバタ入ってきた私たちに気がついて顔を上げた。私は何となく目を逸らしてしまった。
 坂本さんは少し苦手だ。勉強も運動もできて、私のような暗くて大人しい人間にも明るく声をかけてくれる。優しくて良い人なんだけど、私の周りにはいない人柄だからどう接していいか分からないのだ。
「掃除お疲れ様」
 坂本さんは案の定、私に声を掛けてくれた。それに対して頷くので精一杯だった。でも坂本さんが気を悪くした様子はない。
 何か話題を振った方がいいのだろうか。そんなトーク力私にはない。どんなことなら聞いてもいいかなんて匙加減がわからない。
 私の思考とは別に、勝手に口が動いていた。
「どうして残ってるの?」
 発言した後、やってしまったと思った。さすがに言い方がキツいような気がする。
 坂本さんは怒るでもなく、スマホで口元を覆いながら首を傾げた。
「ちょっとやることあって、その後スマホいじってたら遅くなっちゃったんだよね」
 でもそろそろ帰るよ、と坂本さんは鞄を肩に背負った。手には折り畳みの傘がある。ピンク色に白のリボン柄がプリントされているソレは、女の子らしい坂本さんにピッタリだった。
「三波さんは?」
「私は、傘忘れちゃったから少し教室で待とうかなって。夕方には止むらしいし」
「そっか、じゃあ帰る時は気をつけてね」
 バイバイ、と手を振る坂本さんに私も振り返した。坂本さんが教室を出て、どっと疲れが出た。私、ちゃんと話せていただろうか。日本語でやりとりできただろうか。変な子だと思われなかっただろうか。ヒヤヒヤしながら私の席に着いた。座ってやっと一息つけた。
 そういえばいつの間にか武藤くんがいなくなっていた。教室を見渡しても、私一人しかいない。さっきまで青春の一ページっぽいことを一緒にしたのに。でも武藤くんらしいとも思った。距離を縮めるには先は長そう。
 勉強なんてする気が起きなくて、頬杖をつきながら窓の外を見た。教室の窓からは校庭と、その奥にある校門が見える。傘を差して下校する生徒たちを眺めていたら、とある二人組が目に留まった。
 一本の透明なビニール傘に入る男女二人組。どこにでもいるカップル。雨に濡れてよく見えないが、女の子の後ろ姿が坂本さんにそっくりだった。手に持っているピンク色の折り畳み傘も似ているから、多分間違いない。
 坂本さん、付き合っている人いたんだ。
 クラスメイトの意外な一面を目の当たりにしたようで、少し戸惑った。でも同時に納得した。坂本さんのような女の子ならすぐに彼氏ができそうだからだ。
 隣に並んで歩く男子は誰だろうか。目を凝らしていると、不意に二人が向き合った。変わらずビニール傘は水滴で曇って見にくいけれど、その横顔にあっと声を漏らした。
 武藤くんだ。さっきゴミ捨てに行った時と同じ靴を履いている。
 さっきまで武藤くんに対してドキドキしていたはずの心がスッと冷えた。なんだ、二人で付き合っていたのか。明るい坂本さんと引っ込み思案の武藤くん。なんだかチグハグな組み合わせに思える。
 改めて二人の姿を捉えた。そこでようやく傘が坂本さん側に傾いていることに気がついた。武藤くんの肩から鞄が少し濡れてしまっているが、気にしてない様子だった。歩くペースを坂本さんに合わせたり、水たまりを避けるために腕を引いたり。武藤くんは、坂本さんをよく見ていた。
 どっからどう見てもお似合いだった。

「何もなかった」
 一人ぽつりと呟いた言葉は、教室に溶けていった。
 何もなかった。ときめいたことも、浮ついた心も。恋未満だったこの気持ちは、最初から存在しなかった。そう言い聞かせるしかなかった。
 どんよりした曇り空を見上げた。ところどころ光が差し込んできている。もうすぐ雨は止むらしい。私は見ないふりをして、机にうつ伏せた。止んでもすぐには下校できそうになかった。



『ところにより雨』

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