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「この前、二人で帰ったんだって?」
 理子が紙パックジュースのストローを噛みながら、ニヤニヤと聞いてきた。
 ようやく風の強さが和らいできて、ポカポカ陽気に身を包まれるようになった今日この頃。春休みに入ってからほとんど毎日部活をしに学校へ通っていた。入学式の翌日に新入生歓迎会と称して部活動紹介をするからだ。
 私と理子は吹奏楽部に所属している。私はホルンを吹いていて、理子は曲によってエレキベースかコントラバスを弾いている。部員数は二学年合わせて二十人弱いるけれど、選曲の幅やコンクールの出場を考えると、新入部員は多く獲得したい。だから部全体が力を入れているのだ。
 朝からパート別練習中に顧問の内田先生が回ってきて、ものすごくしごかれた。反省点が多すぎて落ち込んだまま、束の間のお昼休憩に入った。学校内なら基本どこで食べてもいいから、私と理子はいつも何となく同級生が集まっているラウンジに来てはいるが、結局二人でベンチに座り食べていた。
「二人でって何?」
 話の状況が掴めなくて聞き返してしまった。理子はニヤニヤした目をそのままに、ズズッと紙パックのジュースを啜った。
「この前の雨の日! 武藤くんと相合傘で帰ったんでしょ?」
 私は努めて冷静に話を聞こうとしたけれど、武藤くんの名前が出てきて思わずむせてしまった。
「ちょっと大きな声で言わないで!」
「ベタだけど。アンタの方が大きいよ」
 理子は飲み切ったジュースの紙パックを潰して、ビニール袋の中に入れた。捨てるときに分別するから袋の口は緩く縛るらしい。中身が溢れないか私の方がハラハラしている。
「帰ったの?」
「帰った」
「どうだった?」
「あの、引かない?」
「言われないと分からない」
 理子はわざとらしくスマホを取り出した。SNSをチェックするフリしてこちらの出方を窺っているのだ。
 私は近づいて、周りに聞こえないように注意して言った。
「いい匂いした」
「きも」
 理子の鋭い発言に撃沈した。でも本当のことである。
 あの日の出来事をざっくり理子へ伝えると、きゃあと黄色い歓声をあげた。
「よかったじゃん。距離縮まって」
「それ全然良かったって思ってなくない?」
「思ってるって」
「ホントに?」
「だって、超幸せそうな顔してるよ。恋する乙女って感じ」
 可愛いなぁと私の腕を肘で突いてきた。私は勢いに押されるまま、顔に手を当てて隠した。顔に出やすいと自覚している。話しただけでこんなに照れて恥ずかしい思いをしているんだから顔が真っ赤に違いない。
 理子は思いの外楽しかったのか、それとも面白かったのか、私の体を大袈裟に揺らし始めた。私はなすがままである。ただし、膝の上に広げたままのお弁当箱はしっかり手で押さえた。まだ少しおかずが残っているから溢すわけにはいかない。
「ねーえー! いつ付き合うのー!?」
「まだ無理だって」
「相合傘しておきながら、アンタ、付き合ってないなんて!」
 理子の言葉には苦笑いしか返せなかった。

   *

 午後から雨が降ったあの日。私と武藤くんは駅前の本屋に寄るために一緒に帰ったのだ。武藤くんはラノベの新刊を、私は好きなファッション雑誌を買いに。
 並んで歩くには傘が邪魔だった。会話していて非常に遠く感じる。でも濡れる方が嫌だったから、私は仕方なく折り畳みの傘を広げた。そこで後ろから「あ、」と声が聞こえたのだ。
「傘、持ってたんだ」
「え、うん。予報見たし」
「そっか」
 武藤くんは形の綺麗な眉毛をこれでもかというくらいに下げた。最近整えたらしく、可愛らしい顔に磨きが掛かっていた。
「え、何? 何かあった?」
「いや、別に、うん。なんでも、ないっていうか」
 歯切れが悪い言い方をする。はっきり言ってくれないことに少しムッとした。
「ちゃんと聞きたい」
 私は一旦傘を閉じた。近くへ寄ると、武藤くんは明らかに動揺していた。「あー」とか「うー」とか言いながら視線をウロウロ動かしている。やがて、大きな目が私に向けられた。
「僕、声大きくないし。でも、坂本さんと話したいから。その、あの、傘。僕の大きいし。いっ、一緒に、いかが、でしょうか」
 だんだん声が小さくなっていき、最後の方は聞き取るのが大変だった。顔も耳も真っ赤にしていたのに、目は私から離れなかった。少し潤んでいるけれど、意志の強い瞳に見つめられて胸が高鳴った。私は無意識に頷いていた。
 武藤くんは途端に嬉しそうに笑った。持ち手が黒いビニール傘をパッと広げて私との間に真っ直ぐ持ち上げた。しとしと降る雨の中、私たちは本屋までの約十分をゆっくり歩いた。
 相合傘は私が思い描いていた以上に距離が近かった。一つの傘に濡れないように入るから、体がほとんど密着している。右隣の武藤くんを必要以上に意識しないようにしていても、熱が、匂いが、どうしても過剰に反応してしまう。
 傘は頭上を覆うように被さるから、声も響いて聞こえる。低すぎず高すぎず、優しくて柔らかい口調の武藤くんの声が私の耳に届いた。多分私の耳は赤かったに違いない。
 それでも傘に降り注ぐ雨の音量に負けてしまう時があって、お互いに顔を近づけることが何度かあった。武藤くんはどう思ったか分からないけれど、私は終始ドキドキしっぱなしだった。
 徒歩十分という距離は本当にあっという間だった。ゆっくり歩いていたのに、結局すぐ辿り着いてしまった。
 店先の屋根に入り、武藤くんが傘を閉じている間にハンカチタオルで濡れた場所を拭いた。でも私は鞄くらいしか濡れてない。なんでだろうと思って武藤くんを見ると、彼の右肩が濡れていたことに気がついた。傘を私の方に傾けてくれていたんだ。
 武藤くんは濡れた右側が気になるのか、水を払うように腕を振っていた。私はそっと近づいて、自分のハンカチタオルを彼の右肩に当てた。
 ビクッと体を震わせて、離れようとした武藤くんの腕を取った。彼は勢いよくこちらを振り返った。
「ごめんね、濡れちゃったね」
「いや、あの、全然」
「私ので申し訳ないけど、使って」
「えぇ!? いや、でも、坂本さんは」
「大丈夫、武藤くんのおかげで濡れなかったよ」
 ありがとう、と伝えると、キョトンとした表情を浮かべていた。まるでそんな気遣い、最初からしてませんという顔だった。私は、無意識だろうと武藤くんの優しさにキュンときているわけだが、果たして本人の意図はどうだったのか。私は答え合わせする日が来るのだろうか。
 あらかた水滴を払って、店内に入った。本に詳しい武藤くんはあれやこれやと作品や著者について語ってくれた。正直半分も理解できなかったけれど、キラキラした目で好きなことを語る武藤くんは可愛かったし輝いていた。今度、武藤くんがハマっているラノベを貸してくれることになった。楽しみが一つ増えて嬉しい。
 目的は達成して、本屋を出たら解散した。電車の時間もあるからすぐ帰ることになったのだ。武藤くんなら、そこからマックへ行って駄弁るとかなさそうと思っていたからイメージ通りだった。
 改札を通って、駅のホームへ降りる前に立ち止まった。武藤くんとは反対方向の電車だから、ここでお別れだ。
「今日はありがとう。じゃあ、またね」
 名残惜しいけれど、そんな気持ちには蓋をして手を振った。
「あ、うん」
 武藤くんは、手を振り返してくれた。それだけだと思っていた。
「僕、今日、楽しかった。ので、また、その、誘ってもいいですか?」
 あ、まただ。
 ジッとこちらを見る武藤くんと目が合った。
 髪を切る前は、オドオドとかビクビクとかして俯いているイメージだった。でも最近、髪を切ってから目が合うようになって、気がついたことがある。
 武藤くんの目は、彼の意思や感情が浮かんでいる。口下手で吃ってしまう彼にとって、目は口以上に重要な意思表示をしていた。
 私はどうやら、彼のその強い眼差しに弱いらしい。また頷いていた。もちろん、提案自体は願ったり叶ったりだけれど。
 彼は、私が頷くと決まって嬉しそうに笑う。この時も例に漏れず、周りに花でも飛んでるんじゃないかというくらいに大喜びしていた。
「じゃあまた!」
 今日一番の大きな声で彼は言って、これまた大きく手を振りながら駆け足で去っていった。こんな姿誰かに見られたら、普段教室にいる武藤くんとはイメージが違いすぎて驚愕しそうだなと思った。

   *

 理子に対してあまり詳しく話せなかったのは、この武藤くんがレアすぎてもったいないと思ってしまったからだ。まだ、私だけしか知らない姿であってほしい。そう思ってしまった。内緒にし続けるのは難しいだろうから、ほんの少しの間だけのつもりだ。
「クラス替えの前に告白してくるんじゃないかなって思ったのに」
 理子はつまんなそうに呟いた。私はようやく揺さぶられなくなり、残りのおかずに手をつけた。
 武藤くんとは連絡先を交換していない。SNSも繋がっていないから、春休みに入ってから音沙汰がなくなった。このまま四月になれば早々にクラス替えがあるから、一緒のクラスになれるか分からない。その後もコンクールがあって、受験シーズンに入って。あっという間に時間が経過する中で、武藤くんはどのくらい一緒にいてくれるかも分からない。
 そもそも告白されていないし、私からもしていないのだ。この前が偶然一緒に帰ることができただけだ。それが、今後も起こるとは限らない。
 でも、武藤くんの目を思い出すと、雄弁に語られているように思えてしまうから不思議だ。多分あの雨の日から何かが始まったような気がする。もしかしたら私の願望混じりの憶測に過ぎないかもしれないけれど。見つめられると、自分じゃいられなくなる。
「悠長に構えてたら、武藤くんもっとモテて他の子と付き合うかもよ」
「そうだね」
 理子の言葉を肯定しておきながら、心の中ではそんなわけないと思っていた。武藤くんは駆け引きとか色んな女の子にアプローチするとか、多分できない人だ。あれほど分かりやすく態度に出ているのに、これで私を好きじゃなかったらとんだ詐欺師だ。
 理子の言う通りなら、彼の気持ちが変わったということだと思う。その前に告白して付き合ってしまえばいいのだろう。ただ、私から告白するのは、なんか、その、癪である。
 どうしたらいいのかと考えていたら予鈴が鳴った。私たちは慌てて片付けて、音楽室へ急いだ。午後からは合奏だ。またしごかれると思うとゲンナリしてしまう。間違えないように集中しなきゃと自分を奮い立たせた。
 忙しくしている間にも猶予はなくなっていく。今は春休み明け、武藤くんに会えることを祈るしかない。自分の膝に乗せたホルンをギュッと握った。



『見つめられると』

3/29/2024, 5:06:06 AM