もう二度と、という言葉は、怖い。
この言葉を使う場面を想像してみてほしい。
もう二度と、手伝ってやらないぞ!
もう二度と、あんな目には遭いたくない。
もう二度と、このようなことがないように…
なんて否定的、なんて暗い!
怒り、恐怖、懺悔…
「もう二度と」は常に、
負の感情の枕詞として立たされている。
二度もあってほしくないような事柄を伝えるための
言葉である以上仕方がないが、どうも苦手な表現だ。
みなさんはこの言葉を認識した瞬間に、
体が僅かな緊張を覚える感覚はないだろうか…
曇り、それは最も曖昧なもの。
どう転ぶかは時間が経たないとわからない。
空を見て、ああこれは薄い雲だ、きっと晴れるぞと
思っても、後からもっと厚い雲を連れてくる。
笑顔も同じだった。
少しだけ曇った笑顔を見て、
寂しそうだなあとは思ったが、
寂しそうだなあと思うことしかできなかった。
寒い時期はいいですね、
キットカットを割った時ぐにゅっとしなくて。
人が亡くなった時、
あの人は星になったんだと言う。
星に例えるのって、すごく、お洒落だ。
星はまず、夜にしか見えない。
そのうえ晴れていないといけない。
私たちが星を見たいと思った日には
見られないかもしれないし、
その逆も然りだ。
星というのは実に気まぐれな振る舞いを見せる。
でも、こういった星の持つ不確定要素の多さは、
言い換えれば"自由"じゃないだろうか。
会えるかどうかは運次第、
私たちの意思には平気で反してくる。
故人と星を重ねた時、その共通項は"自由"なのだ。
そしてもう一つ、
人は忘れられた時に死ぬという言葉もある。
夜空はその実、
私たちが数えられる量を遥かに超えた、
光の届かない星で埋め尽くされている。
見えない星は、忘れられた人なのかもしれない。
もしくは、長い月日を経て、
故人を忘れなかった人が同じ場所に来たから、
探せるように光る必要がなくなったのかもしれない。
俗世にも、私たちにも縛られず、
自由に空を旅するかつての人を想う。
わかんないことだらけだね、世の中ね。
どうして一日は24時間なのか。
どうして太陽は眩しいのか。
どうしてタスクは積み上がるのか。
どうして夜は短いのか。
どうして何もしてないのに疲れるのか。
どうして周りが輝いて見えるのか。
どうしてこの鬱屈した日々に笑みを向けるのか。
どうして笑みを向けられるのか。
どうして生きているのか?
わからない。
わからない、けど、いいんだ。
答えがわからないってことは、
そもそも答えなんてないのかもしれないんだから。
"question"を"question"のままにしておくのがいけないことだなんて、
そんな決まりはなかったんだね。
常に答えを探さなくたって、人生やっていける。
旅の終わりにテストなんてないからね。
だからいいよ、
ちょっとくらい、無責任に生きるのは。