冬晴れは夏の晴れ日より好ましいと感じる。なんだかワクワクするのだ。それは晴れでも冬は寒いからだろう。太陽が照らす日は他の天気の日より暖かいイメージを人々は持つ。夏は季節の中でも一番暑い季節だから、夏の晴れ日は暑いと思うのが当然だ。
でも、冬は季節の中でも一番寒い。冬晴れは暖かい晴れの日が冬の寒さに負け、晴れの本来のイメージと異なる新鮮さを我々に提供してくれる。その新鮮さが未知の空間に自分はいると思わせる。そして我々は日常風景の小さな変化に気づくようになり、季節の変化に対する情緒感や孤独感を覚えるのだ。
現代社会で意外と「幸せになるために何かする」という人は少ないように思う。一昔前は、家庭を持ち家を買い子供を育て、老後の資金を蓄えて往生するというのが幸せのカタチとして定式化されていた。しかし今はその定式化された価値観が揺らぎ、各々の価値観が尊重されると言われる時代となった。それに伴い「好きなことをする」というのが幸せの代名詞となり、「幸せ」という概念が何やら宙に漂ってあまり見向きをされなくなっている気がする。
推し活という言葉ができて久しいが、この推し活も「好きなことをする」という価値観がメジャーになったからこそ生まれた言葉であろう。昭和の時代に推し活だ、などと言いようものなら「いい歳してそんなことせずにさっさと結婚して子供を持て」と家族のみならず会社の上司やはたまた十年来の友人までもが、社会悪を見つけたと言わんばかりに鋭利な刃物を振りかざし、あるべき「幸せ」を掴めと突き刺してきたであろう。
今の時代に「幸せになりたい」という目標を持つ人は少ない。それは幸せが形をもったものではなく、各々のうちに秘められた価値観であり、個性であり、主張となったからである。
「自分はこれが好きなことであり、これをしている自分こそが自分である」と発信する場があり、その発信によって自分を形作り、同じ価値観を持つ者の間で認められ合いたいという欲望の元にまた新たな発信をする。この一連の活動の中で幸せが各人の中で定義づけられ、後天的に「今の自分は幸せである」という状態だと判断するのである。そしてその幸せは「今」という時点から永続的に続くものではなく、その好きなことをしているまさにその瞬間が「幸せ」であると自らに言い聞かせる。
昭和から平成を経て、令和に至るまでの価値観の変遷により、「幸せ」とは目指すべき目標、達成すれば永続的に続くと信じられる先天的な価値観から今夢中になっている状態、その瞬間に感じられる後天的な価値観へと変化を遂げた。
その変化により「幸せ」は人々に標榜される共通概念ではなくなり、各人に秘められ特段取り沙汰されないものへと変貌を遂げたのである。
降りしきる雪道に足跡
【寂しさ】
絢爛。しかしどこか寂寥とした夜を彷徨うように帰路に着く。これが私が社会人になってからの毎日だ。初めて東京に来た時は夏で、地元と比べてこんなに暑いんだから冬はあったかいんだろうと思っていた。ここまでつんざくような寒さだとは初めは露にも思っていなかった。
ここは東京丸の内。新築のオフィスビル群が迫り出すように立ち並ぶ一等地一番街。寒空で輝きを放つシステマティックな星々をぼんやりと眺めると、自分はこの街を構成する一つの部品だと思えてくる。
そういえば親から私の近況をそれとなく聞き出したい気持ちが伝わるLINEが来ていたが、仕事に押し潰されて返信する気持ちにもなれず、既読だけつけてそのままにしていたのを思い出した。
「年末はどうか。帰るのか。」
地元か。これから年末年始くらいは帰ってみるか。
何せ私ももう58歳。星としての役目は終わりかけているからな。
【冬は一緒に】