現代社会で意外と「幸せになるために何かする」という人は少ないように思う。一昔前は、家庭を持ち家を買い子供を育て、老後の資金を蓄えて往生するというのが幸せのカタチとして定式化されていた。しかし今はその定式化された価値観が揺らぎ、各々の価値観が尊重されると言われる時代となった。それに伴い「好きなことをする」というのが幸せの代名詞となり、「幸せ」という概念が何やら宙に漂ってあまり見向きをされなくなっている気がする。
推し活という言葉ができて久しいが、この推し活も「好きなことをする」という価値観がメジャーになったからこそ生まれた言葉であろう。昭和の時代に推し活だ、などと言いようものなら「いい歳してそんなことせずにさっさと結婚して子供を持て」と家族のみならず会社の上司やはたまた十年来の友人までもが、社会悪を見つけたと言わんばかりに鋭利な刃物を振りかざし、あるべき「幸せ」を掴めと突き刺してきたであろう。
今の時代に「幸せになりたい」という目標を持つ人は少ない。それは幸せが形をもったものではなく、各々のうちに秘められた価値観であり、個性であり、主張となったからである。
「自分はこれが好きなことであり、これをしている自分こそが自分である」と発信する場があり、その発信によって自分を形作り、同じ価値観を持つ者の間で認められ合いたいという欲望の元にまた新たな発信をする。この一連の活動の中で幸せが各人の中で定義づけられ、後天的に「今の自分は幸せである」という状態だと判断するのである。そしてその幸せは「今」という時点から永続的に続くものではなく、その好きなことをしているまさにその瞬間が「幸せ」であると自らに言い聞かせる。
昭和から平成を経て、令和に至るまでの価値観の変遷により、「幸せ」とは目指すべき目標、達成すれば永続的に続くと信じられる先天的な価値観から今夢中になっている状態、その瞬間に感じられる後天的な価値観へと変化を遂げた。
その変化により「幸せ」は人々に標榜される共通概念ではなくなり、各人に秘められ特段取り沙汰されないものへと変貌を遂げたのである。
1/5/2025, 7:50:21 AM