灰色の布を裁つと、袋の中では黒い液体に光り輝く白い粒が無造作に散りばめられていた。
星空は、そんなふうにしてゆっくりと雲の隙間から現れた。数日降り続いていた鬱陶しい小雨が止み、いよいよ冬の乾燥した空気が頬に吹き付ける。
階層都市の屋根から外れ、巨大支柱も無くなり、今は中間緩衝地帯をただ歩き続けている。時々整備塔がぽつんと立っている以外何も無い、人工の大平野だ。次いつ端に辿り着くかも分からないし、食料調達の見込みも限りなく少ない。しかしここを超えなければ次の都市へは到達できない。恐ろしいが行くしかなかった。
私の数歩前を歩き続けるレマールのその背中が、闇夜に揺れるランタンの薄い光円の中で周期的に動いている。
何度見てもこの銀天には心惹かれるものがある。きらきらと輝き始めた天球に、私はこの世界に天井が無いことを思い出す。
「オリオンだ」
三つ並んだ見つけやすい形。私は独り言のように漏らしただけだったのに、夜の静寂の中ではよく聞こえたようだった。
「星座が分かるのか」
レマールが歩きながら言う。
「……昔、お母さんに教えてもらったの」
まだレマールと出会う前、地下都市とお母さんが生きていた時。
汚染も無く天気の良い夜に何度か地上に出て、今と変わらないこの星空を見上げた。あの頃はいつまでもその暮らしが続くと思っていたし、ずっとお母さんから正座の話を聞けると信じていた。
「あっちは北斗七星。ちょっと遠くにあるのがカシオペア…」
もう一年になる。母を置き去りにし、自分も死にかけたあの日から……
星空は何も変わらない。きらめきの配置も、瞬きも、空の回転も、あの日と同じままだ。それが世界なのだ。
私が一通り空を指さし終わると、再び訪れた夜の静寂を押し除けてレマールが口を開いた。
「……お前の母さんも誇りに思っているだろう。それだけ覚えているのなら」
そうだと良いんだけど。
心の中でそう呟いてから、お母さんがまだ私を見てくれていると自分がどこかで信じているということに気がついた。
もしかしたらこの星空のどこかに魂の帰るところがあるのかもしれない。もしそうならどれだけ良いだろう。私は毎日、母に会える。
「レマは星、好き?」
唐突に口をついて出た。私自身、なぜそんな問いをしたのかよく分からなかった。口に出してから自分が何を言ったか分かったような感じだった。
「……美しいとは思うが。好きとはまた違うだろうな」
「ふーん」
どっちつかずの彼の答えも、レマールっぽくてそれはそれで納得できた。それが私の欲しかった答えかもよく分からなかった。
一つ分かったのは、自分が星空と母を重ねていたらしいと言うことだった。自分は生きているようにまたたくこの視界いっぱいの星空に、あの日の自分と母の姿を見た。
星空はいつまでもそこにある。なら、何も怖いことはない。
私は少し駆け足で、レマールの横に並んだ。
「次の監視塔で座標を見てみるか。休む場所が見つかるかもしれない」
「うん!」
地平線が切り取った星空の下でただひたすら歩く。果てしないこの旅を、見守ってくれる母と共に……。
-『星空の下で』
青く淡い光の残滓を灯らせている西の地平線が、既に闇に染まった夜の大地にゆっくり溶けてゆく。涼しくも心地よい風がゆったりと吹く廃倉庫郡の合間にオレンジの光とゆらめく影が踊る。そのそばに座り込んで、エンリは錆びついた缶を必死に開けようとしていた。
焚き火に照らされた指先が真っ白になる程力を込めるものの、その蓋は全く動く気配はなかった。込めた力が限界を迎え、エンリはため息に似た深呼吸をした。後方を見やり助けを求める。
「レマ……これ開かないんだけど…」
バックパックの整備をしていたレマールが腕を止めた。道具を置いて立ち上がる彼に、邪魔しちゃったかな、という罪悪感が一瞬浮かぶ。
「貸してみろ」
彼の大きな手に缶を渡すと、何故かひどく小さいもののように見えた。自分が持っていた時にはあんなに固くてどうしようもない存在だったのに、レマールの手に渡るととても弱そうに映る。
彼が両手を添えると、力を入れる素振りも無かったのに、缶はぎしと軽く擦れる音を立ててすんなり開いた。
何も言わずに手渡されたそれを受け取った瞬間、甘い香りが胸に入り込んできた。わ、と声が漏れる。
「レマ、これお菓子だよ!」
「良かったな」
思わず立ち上がったエンリを、微笑ともなんともつかない表情で一瞥し、レマールは元の作業に戻っていった。
香ばしく魅惑的な、いつか口にしたような気もする、この匂いはなんというお菓子だっけ。
缶の裏を叩くと、案外簡単にお菓子は取り出せた。完全に固まっていてお世辞にも食べやすいとは言い難いが、見た目には怪しいところはない。大収穫だ。
指に力をかけるとこれまた案外すぐに割れた。きれいな半分こ。レマールもお腹が減っているに違いない。なんせ今日は一日中歩いたというのに、合成機は壊れてしまうし食料プラントも見つからないしで、朝から何も口にできていないのだから。廃倉庫でこれが見つかって良かった。
きっととても美味しく感じるに違いない。
「いらん」
差し出すや否や。レマールの反応は早かった。
エンリは食い下がったが、レマールは受け取ろうとしなかった。
「今日手に入ったのはこの一つだけだろう。明日が今日よりマシになる保証はない」
「それは……そうだけど…」
なおも納得できないというふうなエンリにレマールは向き直した。
「俺に食事は必要無い。何も食わなくても1か月くらいは平気だと何度か言ったはずだ。……だがお前はそうじゃないだろう」
「そ、そうだけど、そうじゃなくて!」
この人は本当に。
なんでも正しいけど、全部間違ってる。
「一緒に、食べたいの」
だどんなに美味しいお菓子でも、1人で食べたら全然楽しくない。でも、これも私のわがままだ。また迷惑かけてないかな…。
「………そうか」
レマールの返事は、心なしか少し遅かったような気がした
「……それでも、お前が全て食べるんだ。すまないが、知っての通りもう医療キットが底をついてる。次倒れた時には助けられるか分からない」
炎でがちらちら反射するレマールの瞳は、私をみているようでもあり、どこか遠くを見ているようでもあった。真剣な目だった。
また、困らせたんだ、私…
「……じゃあ、隣で食べても良い?」
「ああ」
半分不貞腐れて、割った片方のお菓子を口に入れる。
噛むごとに、素朴ながらも深い味わいが広がっていく。劣化もあまり進行していない。おいしい。
でもやっぱり、レマにも食べて欲しかったな、と懲りずに思う。
「うまいか」
作業を止めないままにレマールが問いかける。うん、と口に含みながら答えると、そうか、と曖昧な返答。
「後で欲しかったって言ってもだめだからね!」
うっすらと頬に笑み。私は見逃さなかった。
風が一際強く吹き、炎が燃え上がる。各々の影を無機質な壁に投げかけ、そして二度と同じ形には戻らずにゆらめき続ける。
冬の、ある夜だった。
-「一つだけ」