#行かないでと,願ったのに
駅のホームに冷たい風が吹き抜ける。冬の朝、まだ陽も昇りきらない時間。私は彼の背中を見つめていた。
「行かないで」と、心の中で何度も叫んだ。けれど、声にはならなかった。
彼は振り返らなかった。改札を抜け、電車に乗るために足早に歩いていく。スーツケースの車輪がコンクリートを擦る音だけが、私の耳に残った。
昨日の夜、彼は言った。
「東京でやり直したいんだ。ここにいたら、きっと後悔するから」
私は笑って、「応援してるよ」と言った。強がりだった。本当は、ずっとここにいてほしかった。私のそばに。
でも、彼の目はもう未来を見ていた。私ではない、別の場所を。
電車のドアが閉まる音がして、私はようやく一歩踏み出した。ホームの端まで駆け寄って、ガラス越しに彼を探す。
いた。窓際の席に座る彼。目を閉じて、何かを考えているようだった。
私は手を振った。彼は気づかない。
「行かないで」と、もう一度心の中で願った。
でも、電車は動き出した。
願いは、届かなかった。
#秘密の標本
静かな雨が降る午後、東京の片隅にある古びた博物館に、ひとりの青年が足を踏み入れた。名前は佐伯悠人。大学で生物学を専攻する彼は、教授から「とある標本を調査してほしい」と依頼されていた。
その標本は、一般公開されていない地下保管庫に眠っていた。案内された部屋は薄暗く、棚には年代物の瓶や剥製が並んでいる。だが、悠人が目を奪われたのは、中央のガラスケースに収められた一体の小さな生物だった。
それは、見たこともない形状をしていた。昆虫のようでありながら、羽は鳥のように繊細で、目は哺乳類のように感情を宿している。ラベルにはこう記されていた。
「標本番号:X-13 採取地:不明 採取者:不明 分類:未定」
悠人はその標本に奇妙な既視感を覚えた。夜になっても頭から離れず、夢の中でその生物が彼に語りかけてくるような錯覚に陥った。
数日後、彼は博物館の記録室で古い日誌を発見する。そこには、戦前に活動していたある学者の記録が残されていた。学者の名は「白川恭一」。彼は幻の生物を追い、南米の奥地へと旅立ったまま消息を絶っていた。
日誌の最後のページには、震える文字でこう記されていた。
「X-13は、ただの生物ではない。これは“記憶”そのものだ。人の過去を喰らい、形を変える。私の記憶も、もうすぐ消えるだろう。」
悠人は愕然とした。あの標本は、誰かの記憶の化身なのか? それとも、もっと深い何か——人間の存在そのものに関わる秘密なのか?
彼は決意する。標本X-13の正体を突き止めるため、白川が消えた南米の地へと旅立つことを。
だがその夜、彼の部屋に標本が現れた。ガラスケースの中にいたはずのそれが、悠人の机の上に、まるで最初からそこにいたかのように佇んでいた。
そして、悠人の記憶が、少しずつ消えていった。
お題#凍える朝
駅のホームに立つと、吐く息が白く空に溶けた。
午前6時。まだ太陽は顔を出していない。
凍える空気がコートの隙間から忍び込み、背筋を震わせる。
「今日も寒いね」
隣に立つ彼女が、マフラーに顔を埋めながら言った。
その声は、まるで湯気のように柔らかく、冷えた空気を少しだけ和らげた。
僕たちは毎朝この駅で会う。
同じ電車に乗り、同じ時間に降りる。
それだけの関係だったはずなのに、いつしか彼女の存在が、僕の朝を少しだけ温かくしていた。
「手、冷たそう」
彼女がそっと自分の手袋を外し、僕の手に重ねた。
驚いて彼女を見ると、彼女は少しだけ笑った。
「凍える朝には、誰かのぬくもりが必要なんだよ」
その言葉は、冬の空に浮かぶ朝焼けのように、静かに心に染みた。
電車がホームに滑り込む。
扉が開く瞬間、僕は彼女の手を握り返した。
凍える朝が、少しだけ春に近づいた気がした。