【待ってて】
「ちょっと待ってて」
入口のドアが開くなり、うちのマスターはお客様の顔をチラッと見るか見ないかのタイミングでそう告げると、急いで奥のキッチンに入っていく。これが、この店の日常の光景だ。
「カフェ アジャスト」には、メニューは一切ない。その名のとおり、ご来店のお客様に合うドリンクやフード(時にはそれ以外に必要だと思われるもの)をマスターが独自に選んでお出ししている。
客の1人として初めてこの店を訪れたときには、独特すぎるマスターと店の雰囲気に戸惑うばかりだった。辺りをキョロキョロ見回していると、マスターがあたたかいおむすび2つと豆腐の味噌汁を運んできた。どうして、今の私が欲しいと思ってたものがわかったんだろう。涙がポロポロ出てきて、しばらく止まらなかった。
「君、まだこの街に来て日が浅いころだったでしょ。そろそろ、こういうのが恋しいのかなぁと思ってね」
後日、スタッフ募集の面接のときに教えてもらったマスターの見立ては完璧に当たっていた。以来、私はこの店でスタッフとして勤務している。
ある日の夕方、ランドセルを背負った可愛い女の子が店に入ってきた。お子様一人の入店なんて珍しいなぁ…と思っていると、
「あ、ちょっと待ってて」
といつものようにマスターはそう言って、奥へと引っ込んだ。しばらくして、マスターは1枚の紙をヒラヒラさせて戻ってくると、入口のドアを開けてその紙をペタッと貼り付けた。入口の張り紙には、こう書いてあった。
本日、貸切りにつき入店はご遠慮ください
※ただし、さくちゃんのお母様は
どうぞお入りください
どうやら、さくちゃんというのが彼女の名前らしかった。マスターはホットココアを彼女のもとに運ぶと、そのまま彼女の隣に座った。彼女は嬉しそうに話し始め、マスターはただ「うんうん」とその話を聞くだけだった。その光景は、陽が落ちて彼女の母親らしき女性の姿が現れるまでずっと続いていた。
さくちゃんはその後も度々店を訪れたが、マスターは隣に座ることも張り紙をすることもなかった。時にはお菓子を頬張りながら、またある時は本を読みながら迎えを待っていた。
「…そういえば、そんなこともあったなぁ」
私が語った懐かしい思い出話に耳を傾けながら、マスターはどこか遠くを見つめていた。
今日は開店20周年記念ということで、普段ご利用いただいているお客様を招待してささやかなパーティーを開催した。お集まりのお客様は、皆口々に初めて店を訪れた時にマスターがお出ししたもののエピソードを語り、当時の自分に必要なものをマスターがくれたと感謝の言葉をおくった。
すると突然、入口のドアが開いて1人の若い女性が店に入ってきた。今日は貸切りであることを伝えようとすると、マスターは
「ちょっと待ってて」
と言って、いつものように奥へ入ってしまった。ほどなくして、可愛い花束を抱えたマスターが現れた。
「誕生日と結婚おめでとう、さくちゃん」
えっ? あの、ランドセルのさくちゃん?
しかも、お誕生日に結婚て…
さくちゃんと呼ばれたその女性は、マスターから花束を渡され笑顔で「ありがとう」と一礼した。
「あの、もしかしてですけれど、さくちゃんてマスターの…」
「うん、俺の娘。20年前、この子の誕生日に合わせて店をオープンしたんだ。だから、招待状送ったら結婚が決まったって言ってね。慌てて花屋行って用意したんだよ」
なるほど。そうだったんだ。いつもとはちょっと違う、父親の顔をしているマスターが眩しかった。
【どこにも書けないこと】
いや、どこにも書けないことは
もちろんここにも書けないことでしょ
でも、時が経てば変わることもあるから…
そのときはここかどこかで書きますよ
いつになるかは知らんけど
【Kiss】
「おまたせしましたぁ〜」
ほぼ予定どおりの時間にもかかわらず、スミレ先生はいつもこう言いながら爽やかな笑顔で僕の前に現れる。
「お忙しいのに、お時間割いていただいてありがとうございます。どうしても、次回作の相談に乗っていただきたくて…」
「いやいや、先生。それ、原稿を依頼している僕の台詞ですから。実際、今日の打ち合わせをお願いしたのはこちらの方ですし」
「ふふふ、確かにそうですね。でも、私もちょうど相談したかったのでタイミングはバッチリです。さすがは『担当さん』ですねぇ〜」
そう言いながら、スミレ先生はいつものようにカバンの中から「ジャポニカ学習帳」と万年筆を取り出した。打ち合わせをするときはこまめにメモをとり、時にはその場で原稿の冒頭部分ができてしまうこともある。
「珍しいですよね。今どき、先生みたいに手書きにこだわる作家さんって」
しまった、つい失礼なことを言ってしまった。作家と編集担当という関係が長くなり、ついつい余計なことを言ってしまう瞬間が増えていることは自覚して反省していたはずなのに。
「手書きっていうか、万年筆が大好きなんですよ。だから、隙あらば万年筆を使いたいっていうのが本当のところです」
なるほど。でも、これほどまでに人を惹きつける万年筆の魅力というものが今ひとつわからない。
「万年筆のどこに惹きつけられるんですか?」
「それはですね…」
と、スミレ先生はジャポニカ学習帳の白紙のページに万年筆のペン先をそっとあてた。その瞬間、ブルーグリーンのインクが白い紙に向かって流れ出す。
「この『Kissをする瞬間』がめっちゃ好きなんです」
き…キ…Kiss…ですか⁈
「そうですよ。この万年筆のペン先と白い紙が触れ合う瞬間って、Kiss以外にどう表現するんですか!」
いつも、穏やかでほんわかしたイメージのスミレ先生がこれほど激しく力説するのを初めて見た。
「私、筆圧が弱いので他の筆記具だと書いたものを読み返すと文字がかすれていたり薄すぎたりで見づらいんです。でも、万年筆だと一定の力を加えて書けばインクが均等に出てくれる。いわば『弱者に優しい』筆記具なんです」
私は万年筆に救われて作家になれたんです、とスミレ先生は嬉しそうに語った。
「じゃ、そろそろ打ち合わせに入り…」
と言うスミレ先生だったが、僕には先ほどから心に引っかかることがあった。
「あの、先ほど先生が言われた『Kissをする瞬間』って、身近な人なんかには感じないんですか?」
あ、やっぱりマズかったか。さすがに怒らせてしまったかと思ったが、意外にもスミレ先生は冷静だった。
「今のご時世、それってコンプライアンス違反ですよね。だから、ノーコメントです」
ですよね。余計なことを言いました。
申し訳ありません、と謝ると
「でも、あんな素敵な瞬間が自分の元に訪れることがあれば、それはそれで嬉しいですよね」
ねっ、とイタズラっぽく笑みを浮かべ、スミレ先生は僕の顔を真っ直ぐ見つめている。
やはり僕は、だいぶマズイことを言ってしまったらしい。いつもよりだいぶ早くなってしまったこの鼓動は、打ち合わせが終わってもなおスピードを緩めることはなさそうだ。
【あなたに届けたい】
「モクレンの花は、地球上最古の花木って言われているんだって。1億年以上も前から、どんなときでも上を向いて咲いてるのってすごくない?」
去年、満開の紫木蓮を見ながら彼女はそう言って眩しいほどの笑顔を見せた。1億年の歴史の中でどれほど辛く悲しい出来事が起こっても、空を見上げるように咲くモクレンの花に、彼女は自分の姿を重ね合わせていたのかもしれない。
あの日からもうすぐ1年が経つ。
最期の日を迎えるそのときまで、彼女は常に笑顔だった。激しい痛みも耐え難い苦しみもあったはずなのに、一切それを見せなかった。その姿は、あの日彼女が見ていたモクレンの花そのものだった。
彼女が好きだった曲がラジオで流れた。
「この曲がきっかけで、モクレンの花に詳しくなったのよ」と教えてくれたあの曲。僕は、彼女が旅立ってから初めて泣いた。曲が終わってもなお、涙が止まらなかった。
僕は、彼女と過ごした日々の記憶を少しずつ書きおこしはじめた。モクレンのように生きた彼女のことが、いつか誰かの心に届いて花開くことを願って…僕は今、涙の向こう側に歩みを進めている。
【特別な夜】
同じライブハウスの前を、もう何往復しているんだろう、私。ここまできたらもう中に入ってしまえばいいものを、変なプライドが邪魔しているのか入り口を素通りしては戻り、また素通りしては戻ってしまう。
1ヶ月前、些細なことで彼と喧嘩した。彼は地元ではある程度知られたミュージシャンで、定期的にライブハウスのステージに立っている。私には、彼がその現状に甘んじているように見えて歯痒かった。あなたには、前に進もうという姿勢が感じられない-そう言って、私は彼のもとを去った。
開演数分前、ようやく中に入った私は観客の多さに驚いていた。知り合った最初のころは半分も埋まることがないのが常だったのに、今日は空席を探すのが難しいくらいだった。
ようやく席に着いたと同時に、彼らのステージが始まった。昔から馴染みの曲もあったが、初めて聴く曲も少なくなかった。きっと、私と別れた後も曲を作り続けていたのだろう。
「頑張ってたんだなぁ、あの人なりに」
そう思い、なかなか真っ直ぐ見られなかったステージ上の彼に目を向けた。汗だくで振り絞るように歌う彼の姿は、昔と変わらずかっこよかった。そして、あの頃よりも歌うことを楽しんでいるようだった。
「最後はいつものこの曲です。聴いてください」
聞き馴染みのあるメロディが流れてくると、いつの間にか一緒に口ずさんでいた。そして、いつの間にかステージ上の彼と目が合った…気がした。
ライブが終わり、会場を後にするとすぐに聞き覚えのある声で呼び止められた。さっきまでステージの上で輝いていた彼が、息を切らして目の前に立っている。
「ありがとう、来てくれて。あの曲も一緒に歌ってくれて…嬉しかった、ホントに」
そう言って笑う彼は、あの頃のままだった。でも、確実に前を向いて進んでいるのだと今ならわかる。
「あのときはごめんなさい。私、何もわかってなかった。もう遅いかもしれないけど、あなたが積み重ねてきたものがやっとわかった気がする。もし、できることならまた…」
そう言いかけたところで、彼が言葉を重ねた。
「俺と一緒に歩いてくれないか。少しずつかもしれない、立ち止まることもあるかもしれない、それでも一緒にいたいんだ」
よかった。まだ、間に合った。
私は彼にお願いをした。
「今度は目の前じゃなくて、隣に座ってあなたの歌を聴きたいんだけど」
彼は笑顔で頷くと、私の手をとった。
「帰ろう、一緒に」
私も笑顔で頷き、この特別な夜の幕が降りた。