【宝物】
一回り以上歳の離れた彼とは、知人からの紹介で知り合った。初めて会うことになったとき、彼はニコッと笑って自分の職業を「音楽屋です」と言った。このとき、既に彼の作った音楽はCMやドラマの主題歌として起用され、広く世に知られていた。私は世間に疎くてまったく知らなかったのだが、かえってそれが彼にしてみれば新鮮だったらしい。
「僕と家族になりませんか?」
お付き合いを重ねて3年目の誕生日に、彼からプロポーズされた。目の前でひざまずいてバラの花束を差し出す彼は、ものすごくキザでカッコつけだった。が、一方で気負いなく自然体の笑顔を向けられ、気がつけば私は「はい」と答えていた。
結婚してから、私へのバースデープレゼントはそれまでのアクセサリーから「音楽」へと変わった。毎年毎年、いわゆるバースデーソングというものを私のために作ってくれた。決して世の中に出回ることはない、私と彼しか知らない曲が増えていった。
贈られたバースデーソングが10曲を超えようとするころ、私はあることに気がついた。毎年、まったく異なるストーリー展開の歌詞の中で必ず登場する共通の言葉があるのだ。
『心配ないよ 君は大丈夫』
「ねぇ、どうしてここの歌詞だけ毎年同じなの?」
彼に聞いてみると、彼は初めて会ったときと同じようにニコッと笑ってこう言った。
「あれはね、僕と離れているときも、君が笑顔で幸せに暮らせるようにっていうおまじないです」
去年、彼は私の手の届かない、遠い遠い場所へたった1人で旅立ってしまった。もう、私新たなバースデーソングを聴くことはできないんだなぁ、と思いながら今日の誕生日を迎えた。
ピンポーン
と玄関のチャイムが鳴り、私宛に荷物が届いた。送り主の欄には、彼の名前があった。慌てて開けてみると、中には手書きの楽譜とカセットテープ、そしてメッセージカードが添えられていた。
「お誕生日おめでとうございます。今年もまた君を想い、バースデーソングを作りました。気に入ってくれたら嬉しいです」
事前に彼が準備していたものを、確実に私の手に渡るようにと彼の仲間たちが奔走してくれたことを後になって知った。私は、送られたカセットテープをカセットデッキの中に入れた。
流れてきたのは、美しいメロディーを奏でる彼のピアノと歌。歌詞には、やっぱりあの「おまじない」が入っていた。しかも今回は、繰り返し歌っている念の入れようだった。
…うそつき
夕飯のカレーを作りながら、私は思わず呟いた。玉ねぎはとっくに切り終わっているのに、涙が止まらないのだ。送られたテープは何度も聴き、さらには今までもらったバースデーソングをすべて歌いながら作っているというのに。
それでも、彼と過ごした時間や音楽をはじめ共有できたことすべては、私にとって宝物だった。彼を失った今も、私は多くの宝物に守られている。涙を流し続けながら、今の私がひどく幸せであることにようやく気がついた。
その夜、私は彼がくれたメッセージカードに返事を書いた。
うそつきなんて言ってごめんね
今までも 今も これからもずっと
私の1番の宝物はあなたです
心配ないよ 私は大丈夫!
【はなればなれ】
たとえはなればなれになっても
いつかはまた会えると思ってた
それなのにどうしてあなたは
早すぎるほどのスピードで
手の届かない遠い遠いところへ
誰にも告げずたったひとりで
旅立ってしまったんだろう
今はもう痛みとか苦しみとか
悲しいことすべてにさよならして
穏やかな気持ちになっているのかな
そうであってほしい
たとえはなればなれになっても
あなたの音楽はずっとここにある
歌も 言葉も メロディも 声も
もう新作が聴けないのは残念だけど
手を伸ばせばあの時のあなたに会える
きっとこれからも私は
あなたの音楽に支えられて生きていく
素敵な宝物をいくつもいくつも届けてくれて
本当にありがとう
心は、はなればなれじゃないから
これからも大切に想い続けていますよ
そしてあなたの音楽を聴き続けます
だから…おやすみなさい、KANさん
【子猫】
コハルちゃん
初めて会ったどしゃ降りの日、あなたは私をこう呼んだ。そして、小さかった私を拾い上げ、部屋に招き入れてくれた。濡れた身体を丁寧に丁寧に拭いてくれた、優しいあなた。もしも私が子猫じゃなくて、あなたと同じ姿だったら迷わずハグしていたと思う。
コハルちゃん
日を追うごとに、あなた以外の人から呼ばれることが増えた。あなたの友達、お仕事の仲間、離れて暮らすご家族や親しくしてくれるお隣さん…みんなあなたのことが大好きだった。だから、私にもすごくすごく優しい人たちばかりだった。
コハルちゃん
そう呼んでくれる人が1番多く集まったのは、あなたのバースデーパーティー。部屋には大勢の人達が入れ替わり立ち替わりに訪れた。私も名前を呼ばれ、時には抱き上げられ、頭を撫でられた。そして「彼女のこと、これからもよろしくね」と耳元で囁く人もいた。
この日、パーティーを主催してくれたのはあなたの大親友のカコちゃん。部屋にお泊まりした彼女とあなたが楽しそうにおしゃべりしている。そして、初めて知った。
私と会ったあのどしゃ降りの日、あなたは病院でお医者さんからあまりにも短すぎる自分の余命を告げられた。その帰り道、雨に濡れてブルブル震えていた私を抱き上げ、こんな状況で生き物を飼うのは無責任だと思った。でもこの子猫がいてくれたら明日も頑張って生きられる。そう思ったから、部屋に連れ帰ったのだと。
「じゃあ、また明日。おやすみコハルちゃん」
あなたが私の名前を呼んでくれたのは、これが最後だった。翌日、なかなか起きないあなたの身体をカコちゃんが大きく揺らしている。少し微笑んだような表情を浮かべたあなたは、2度と目を覚ますことはなかった。カコちゃんは、長い間声を上げて泣いていた。そして、少し落ち着くとあなたの頭を撫でながら「おつかれさま、小春ちゃん」と言った。
…コハルちゃん、コハルちゃん
そう呼ばれて、私は顔を上げた。どうやらうとうとして、ずいぶん昔のことを思い出していたらしい。
今の私は、人間でいえば80〜90代のおばあちゃん。あなたが亡くなった後、私はあなたのお父さんお母さんの家に引き取られた。さっき、私を呼んだのはあなたのお母さん。娘と同じ名前がついた私のことを、いつも愛おしそうに呼んでいる。
私の日々の暮らしは、あなたの部屋にいたころと何も変わらない。美味しいエサをもらって、時々遊んでもらって、眠りについて…もうあなたには会えないけれど、あなたを知る人たちが今でもこの家を訪れて私の名前を呼んでくれる。
あなたの家族にしてくれて、ありがとう。
あの日からずっと、私を幸せにしてくれて
ありがとう、小春さん
【また会いましょう】
いつもよりは、少し静かだな…
病院の待合にいた私は、こういうときならと、読みかけの文庫本をバッグから取り出した。会計にはまだまだ時間がかかりそうだ。挟んでおいた栞を外し、本文に目を落としたその時だった。
「Hello!」
どこからか、とても発音のいい挨拶が聞こえた。ここは総合病院だから、外国人の患者さんが訪れることも少なくない。あまり気にも留めずに本を読み進めようとすると
「Hello!」
また同じ声が聞こえた。近くにいるんだろうかと顔を上げてみると、すぐ横に小柄な青年が立っていた。
「Can I talk to you for a moment?」
どうやら、あの挨拶は私に向けたものだったらしい。私は「Yes」と言って彼と話すことになった。
こういうことは初めてではなかった。両親ともに日本人だが、どちらかというと顔の掘りが深いタイプなので、海外の方に間違えられることが今までにもあったのだ。ネイティブと英語で話す機会も多く、会話も問題なかった。
彼と会話を進めながら、次第に違和感を覚えた。最初は流暢だった彼の英語が辿々しくなり、間が開くことが多くなったからだ。もしかして…と思い、私は日本語で言った。
「あの、私、日本人なんですけど」
その瞬間、明らかに彼の表情が変わった。どうやら、私の推測どおりだったらしい。彼は慌ててこう説明してくれた。
「ごめんなさいっ‼︎ 僕、独学で英語を勉強してるんですけどなかなか話す相手がいなくて。ネイティブの人に自分の英語が通じるか試してみたくてつい…」
それからは、お互い日本語で気楽に話をした。彼は長くこの病院に通院しているのだという。骨の成長に関わる病気だそうで、身長は今のままで伸びないのだという。
「あの、病院だからこんなこと言うのはアレなんですけど」
彼は遠慮がちに次の言葉を続けた。
「今日、あなたと話せて本当に楽しかったです。また会えたら、今日みたいに話しかけてもいいですか?」
「ええ、もちろん。でも、今度は最初から日本語でお願いしますね」
クスクス笑っているところで、会計の順番が回ってきた。それじゃ、と言って立ち上がると
「それじゃ、またどこかで!」
と彼が手を振ってくれた。
あれから随分経つけれど、彼にはまだ再会できていない。今でも病院の待合にいると、何となく周りをキョロキョロ見てしまう。無意識に彼の姿を探してしまう自分が可笑しくて仕方ない。今日もいないかぁ、と置いてある週刊誌に手を伸ばす。
「こんにちは!」
聞き覚えのある声がすぐ横から聞こえた。きっと、顔を上げたときには少し皺の増えた彼の笑顔があるだろう。
【飛べない翼】
今、僕の背中には誰の目から見ても明らかな翼がある。大きめの洋服やリュックで隠そうとするが、かなり不自然な背中の膨らみを指摘されることは少なくない。
もちろん、翼があるからといって飛べるわけではない。この翼は『飛べない翼症候群』によってもたらされたものだ。
『飛べない翼症候群』は国内で数千例しかない、珍しい症例だ。翼が生えることを除いては大きさや色、形などもまちまちで、原因も未だ特定されていない。幼少期に発症し、最初は肩甲骨が少し盛り上がっているくらいだが、小学生高学年から中学生にかけて翼が形成されていく。そして、高校から大学入学までに翼は消滅するとされている。
ただ、ごく稀に成人しても翼がそのまま残る場合がある。27歳の僕がその「稀な例」だ。
「あの、もしかして今井さんって『飛べない翼症候群』ですか?」
たまたま廊下ですれ違った総務の花岡さんに、突然声をかけられた。
「えぇ、まぁ…」
「やっぱり! でも、珍しいですよね。社会人になっても翼が残ってるのって。私も大学入学近くまであったんですよ、背中に」
あぁ、この人もそうか。
『飛べない翼症候群』だったという人には、今までにも何度か声をかけられてことがある。その後は決まってこう続くのだ。
「大変だねぇ、同じ症状を経験したことがあるからわかるよ。自分は早いうちに翼が取れたからいいけど、その歳で翼背負ってるって正直イタイよね〜」
別に好きで翼を背負ってるわけではない。同じ経験をしながら、相手の苦しみをまったく理解していない人ほどタチの悪いものはない。
「そうですか。じゃ、今は快適なんですね」
僕は、余計なことを言われたくなくて先にこう言った。でも、帰ってきた答えはまったく予想していない言葉だった。
「ううん、ちっとも。私、翼を失ったことを今でも引きずっているのよ」
すると、花岡さんは大学時代に出会った留学生の話をしてくれた。彼自身は『飛べない翼症候群』ではなかったが、友人知人の何人かにこの症例が当てはまり、自力で調べていたという。花岡さんも自分の症状を明かし、大学入学前に翼が消えてよかったと話すと、彼は思いがけないことを言った。
「翼はあった方がいいよ。大人になっても。だってそれは、とても大切な個性だから」
自分が経験したこともないのに、何て身勝手なとこを言う人だろう、と最初は花岡さんも良い印象を抱かなかった。でも、彼の友人たちはそれぞれ自分の翼を誇りにして、あえて隠そうとはしなかったという。そして、翼が消滅するときには仲間とフェアウェルパーティーを開き、感謝と惜別の想いを表したという。
「彼の友人で、成人しても翼が残っている人がいるの。その人ね、今はある大きなテーマパークのスタッフとして働いているんだけど、子どもたちに自分の翼を見せて今やパーク1の人気者になっているのよ」
僕は呆気に取られていた。僕以外で、成人しても翼が残る人物の話を聞いたのは初めてだった。しかも、それを活かして仕事をしているなんて…自分との圧倒的な差を感じた。
「それでね、今井さんの歩き方を見たときに学生時代の私を思い出してしまったの。何となく背中を隠すというか、庇っているような気がしたから。突然声をかけてしまってごめんなさい」
「いえ…あの、ありがとうございます」
僕は、花岡さんに深々と一礼した。初対面の僕を呼び止めて、こんな話をしてくれる勇気と優しさが嬉しかった。
「あ、あとね、もうひとつ」
花岡さんは急に小声になった。
「さっきのテーマパークのことが総務でも話題になってね、来年からあなたのように成人後も翼を持つ社員には何らかの補助が出るかもしれないの」
「えっ、ホントですか⁈」
「まだ『かもしれない』としか言えないけど。でも、一般社員より負担は大きいだろうし、できるだけみんなで働きやすい環境にしたいって話は進んでいるわ」
そうか、僕は今までこの翼を隠すことばかり考えてきたけれど、これからはこの翼を生かし、ともに生きることができるかもしれない。
「花岡さん、ありがとうございます。お話できてよかったです。今日からちょっとだけ、自分の翼を好きになれそうです」
僕はあらためて花岡さんに礼を言って、自分の部署に戻ろうと歩き出した。
「今井さん、背中!」
花岡さんに言われ、無意識に背中を丸めていた自分に気づく。自分の個性として完全に受け入れるにはまだ時間がかかりそうだ。