【また会いましょう】
いつもよりは、少し静かだな…
病院の待合にいた私は、こういうときならと、読みかけの文庫本をバッグから取り出した。会計にはまだまだ時間がかかりそうだ。挟んでおいた栞を外し、本文に目を落としたその時だった。
「Hello!」
どこからか、とても発音のいい挨拶が聞こえた。ここは総合病院だから、外国人の患者さんが訪れることも少なくない。あまり気にも留めずに本を読み進めようとすると
「Hello!」
また同じ声が聞こえた。近くにいるんだろうかと顔を上げてみると、すぐ横に小柄な青年が立っていた。
「Can I talk to you for a moment?」
どうやら、あの挨拶は私に向けたものだったらしい。私は「Yes」と言って彼と話すことになった。
こういうことは初めてではなかった。両親ともに日本人だが、どちらかというと顔の掘りが深いタイプなので、海外の方に間違えられることが今までにもあったのだ。ネイティブと英語で話す機会も多く、会話も問題なかった。
彼と会話を進めながら、次第に違和感を覚えた。最初は流暢だった彼の英語が辿々しくなり、間が開くことが多くなったからだ。もしかして…と思い、私は日本語で言った。
「あの、私、日本人なんですけど」
その瞬間、明らかに彼の表情が変わった。どうやら、私の推測どおりだったらしい。彼は慌ててこう説明してくれた。
「ごめんなさいっ‼︎ 僕、独学で英語を勉強してるんですけどなかなか話す相手がいなくて。ネイティブの人に自分の英語が通じるか試してみたくてつい…」
それからは、お互い日本語で気楽に話をした。彼は長くこの病院に通院しているのだという。骨の成長に関わる病気だそうで、身長は今のままで伸びないのだという。
「あの、病院だからこんなこと言うのはアレなんですけど」
彼は遠慮がちに次の言葉を続けた。
「今日、あなたと話せて本当に楽しかったです。また会えたら、今日みたいに話しかけてもいいですか?」
「ええ、もちろん。でも、今度は最初から日本語でお願いしますね」
クスクス笑っているところで、会計の順番が回ってきた。それじゃ、と言って立ち上がると
「それじゃ、またどこかで!」
と彼が手を振ってくれた。
あれから随分経つけれど、彼にはまだ再会できていない。今でも病院の待合にいると、何となく周りをキョロキョロ見てしまう。無意識に彼の姿を探してしまう自分が可笑しくて仕方ない。今日もいないかぁ、と置いてある週刊誌に手を伸ばす。
「こんにちは!」
聞き覚えのある声がすぐ横から聞こえた。きっと、顔を上げたときには少し皺の増えた彼の笑顔があるだろう。
【飛べない翼】
今、僕の背中には誰の目から見ても明らかな翼がある。大きめの洋服やリュックで隠そうとするが、かなり不自然な背中の膨らみを指摘されることは少なくない。
もちろん、翼があるからといって飛べるわけではない。この翼は『飛べない翼症候群』によってもたらされたものだ。
『飛べない翼症候群』は国内で数千例しかない、珍しい症例だ。翼が生えることを除いては大きさや色、形などもまちまちで、原因も未だ特定されていない。幼少期に発症し、最初は肩甲骨が少し盛り上がっているくらいだが、小学生高学年から中学生にかけて翼が形成されていく。そして、高校から大学入学までに翼は消滅するとされている。
ただ、ごく稀に成人しても翼がそのまま残る場合がある。27歳の僕がその「稀な例」だ。
「あの、もしかして今井さんって『飛べない翼症候群』ですか?」
たまたま廊下ですれ違った総務の花岡さんに、突然声をかけられた。
「えぇ、まぁ…」
「やっぱり! でも、珍しいですよね。社会人になっても翼が残ってるのって。私も大学入学近くまであったんですよ、背中に」
あぁ、この人もそうか。
『飛べない翼症候群』だったという人には、今までにも何度か声をかけられてことがある。その後は決まってこう続くのだ。
「大変だねぇ、同じ症状を経験したことがあるからわかるよ。自分は早いうちに翼が取れたからいいけど、その歳で翼背負ってるって正直イタイよね〜」
別に好きで翼を背負ってるわけではない。同じ経験をしながら、相手の苦しみをまったく理解していない人ほどタチの悪いものはない。
「そうですか。じゃ、今は快適なんですね」
僕は、余計なことを言われたくなくて先にこう言った。でも、帰ってきた答えはまったく予想していない言葉だった。
「ううん、ちっとも。私、翼を失ったことを今でも引きずっているのよ」
すると、花岡さんは大学時代に出会った留学生の話をしてくれた。彼自身は『飛べない翼症候群』ではなかったが、友人知人の何人かにこの症例が当てはまり、自力で調べていたという。花岡さんも自分の症状を明かし、大学入学前に翼が消えてよかったと話すと、彼は思いがけないことを言った。
「翼はあった方がいいよ。大人になっても。だってそれは、とても大切な個性だから」
自分が経験したこともないのに、何て身勝手なとこを言う人だろう、と最初は花岡さんも良い印象を抱かなかった。でも、彼の友人たちはそれぞれ自分の翼を誇りにして、あえて隠そうとはしなかったという。そして、翼が消滅するときには仲間とフェアウェルパーティーを開き、感謝と惜別の想いを表したという。
「彼の友人で、成人しても翼が残っている人がいるの。その人ね、今はある大きなテーマパークのスタッフとして働いているんだけど、子どもたちに自分の翼を見せて今やパーク1の人気者になっているのよ」
僕は呆気に取られていた。僕以外で、成人しても翼が残る人物の話を聞いたのは初めてだった。しかも、それを活かして仕事をしているなんて…自分との圧倒的な差を感じた。
「それでね、今井さんの歩き方を見たときに学生時代の私を思い出してしまったの。何となく背中を隠すというか、庇っているような気がしたから。突然声をかけてしまってごめんなさい」
「いえ…あの、ありがとうございます」
僕は、花岡さんに深々と一礼した。初対面の僕を呼び止めて、こんな話をしてくれる勇気と優しさが嬉しかった。
「あ、あとね、もうひとつ」
花岡さんは急に小声になった。
「さっきのテーマパークのことが総務でも話題になってね、来年からあなたのように成人後も翼を持つ社員には何らかの補助が出るかもしれないの」
「えっ、ホントですか⁈」
「まだ『かもしれない』としか言えないけど。でも、一般社員より負担は大きいだろうし、できるだけみんなで働きやすい環境にしたいって話は進んでいるわ」
そうか、僕は今までこの翼を隠すことばかり考えてきたけれど、これからはこの翼を生かし、ともに生きることができるかもしれない。
「花岡さん、ありがとうございます。お話できてよかったです。今日からちょっとだけ、自分の翼を好きになれそうです」
僕はあらためて花岡さんに礼を言って、自分の部署に戻ろうと歩き出した。
「今井さん、背中!」
花岡さんに言われ、無意識に背中を丸めていた自分に気づく。自分の個性として完全に受け入れるにはまだ時間がかかりそうだ。
【意味のないこと】
「あぁ〜、なくなってるぅ〜」
同僚の熊谷が急に大声を上げたので、周りにいた連中の視線が一気に熊谷に集中した。
ここは、とある小さな地方のラジオ局。クマこと熊谷はここの社員であり、パーソナリティーとして深夜の生番組番組を担当している。
「クマさん、おっちょこちょいにも程がありますよ。今度はいったい何を無くしたんですか?」
3ヶ月前に配属された新人ADの犬飼が、皆が思ったであろうことを代弁してくれた。
「なくしたんじゃなくて、なくなってんの。ほれ、今日健康診断の問診票もらったろ?あれ見てみ」
そう言うと熊谷は1枚の紙をヒラヒラと見せながら、ある部分を指差した。
「ここ! ここにあった性別欄が今回なくなってんの。何か革命的じゃね?」
「っていうかクマさん、よく気づきましたよねぇ。性別欄なんて惰性で書くもんだから、あってもなくても意味なくないですか?俺、クマさんに言われるまで全っ然気づかなかったし」
犬飼はそう言いながら、あらためて問診票を確認している。熊谷はその様子を見ながら、そりゃそうだろうなぁ…と小声で呟いた後、こう言った。
「俺みたいに、持って生まれた性別と今現在の姿にギャップのある奴にとっては結構ありがたいもんだよ。毎回、ビミョーに悩む項目だったんだから」
「えっ⁉︎ クマさんって、男性だとばっか思ってたけど違うんですか?」
「あぁ、そっか。犬飼はここに来てまだ3か月だっけ。じゃあ、まだ知らないことも多いよなぁ」
熊谷は、動揺を隠せない犬飼の姿を面白そうにニヤニヤ眺めている。他の連中は皆、番組の立ち上げ当初から携わっているので、熊谷がどういう人物であるかある程度は承知している。番組の聴取者には性別不詳ということにしているので、まだ付き合いの浅い犬飼が知らないのも当然だ。
「ま、いいじゃんどっちでも。俺は俺なんだから、今までと何ら変わりないよ」
熊谷は、ニコニコしながら犬飼の頭をポンポンと触った。彼は「俺、犬じゃないんですけど…」と、多少ふてくされてはいたものの
「そうですよね。今更どっちだって何も変わらないですよね」
と最終的には納得し、皆と同じように自分の持ち場へと戻っていった。
熊谷も今日の放送の準備に取り掛かろうとして、ふと自分に向けられた視線を感じていた。番組のメインディレクターである、八田の姿があった。
「何、八っつぁん。何か変更あった?」
熊谷が八田の方へ歩み寄ると、八田は熊谷の耳元でこそっと呟いた。
「俺は意味あると思ってるけどな、性別」
どゆこと? と熊谷が聞き返すと、八田はめったに見せない笑みを見せた。
「だって、お前が男性だったらこないだ提出した婚姻届、受理されなかっただろ?」
たしかにね、と熊谷も思わず笑った。2人が家族になったことは当分、ここだけの話だ。
【あなたとわたし】
あまり知られていないことだけど、この世の役目を終えて天へと昇った者の中には、天界の名を受けてあらゆる気象の分野を司る者がいる。
例えば太陽を司っているヒナタは、天界が定める年間計画に基づいて日照時間を調整する。そして、雨を司る俺はこれまた天界が定める年間計画に基づいて降水量を調整している。
1度は天寿を全うしたはずのヒナタと俺だったが、なぜかまたこの世で出会ってしまった。しかも、なぜかお互い高校生になっているのだから気恥ずかしいことこの上ない。
ただ、太陽と雨をそれぞれ司る者同士が近くにいると打ち合わせがしやすい。天界の年間計画は晴れの日と雨の日がそれぞれ定められいるが、日照時間や降水量は1年間のトータルしか決められていない。だから、あまり雨を降らせてほしくないときにはヒナタが事前に俺に依頼をしてくる。
「ねぇ、ミナカミ。お願い。お〜ね〜が〜い!明日、少しの間だけ雨を降らせないようにしてほしいの」
「お〜ね〜が〜いって、いったい今年何度目だと思ってんだ、ヒナタ。またここで雨量を抑えたら、年の終わりに帳尻合わせで災害級の大雨を降らせなきゃいけなくなるじゃんか」
「それは困る!…けど、明日はどうしても降らせてほしくないの。放課後の数時間だけでいいから」
以前、ヒナタがお願いしてきたのは妹の中学受験のときだった。その前は、弟が野球の試合に出場するとき。両親の結婚記念日というときもあった。そのたびに、俺はぶつぶつ文句を言いながらも降水量を限りなく最小限に近づける努力をしていた。
ただ今回は、その時間帯だけどうしても雨を降らせないでくれという。ヒナタとは長いつきあいになるが、そんな依頼は初めてだ。
「放課後だけって、今回は何が理由なんだよ」
ヒナタはしばらく黙っていたが、意を決したように口を開いた。
「ツカサがね、生まれて初めて好きな人に告白するの」
「ツカサって、おまえがこの世に戻ってきて1番最初にできた友達の、あのツカサ?」
「そう、そのツカサがね、ずっと想い続けている人に告白したいから力を貸して欲しいって。私には日を照らすことしかできないけど、彼女の力になってあげたいの」
いや、むしろ雨を降らせない俺の方が彼女の力になるんじゃね? と俺は思ったが、親友の一世一代の決心を何としても後押ししたいヒナタの真剣な表情を前にして、何も言えなくなってしまった。
「…15時から17時まで。それ以上はムリ」
「えっ、いいの? うわぁ〜、ありがとぉ〜、ミナカミ!」
「うわっ!急に飛びつくな‼︎」
こういうことを無邪気にしてくるのが、ヒナタのいいところでもあり悪いところでもある。毎回、何だかんだいいように振り回される俺の身にもなってほしいもんだ。
それにしても、今までヒナタは1度も自分のために願ったことはない。もしもヒナタがこの先誰かに告白するとしたら、そのときはまた俺に雨を降らせないようにとお願いしてくるんだろうか。
何だかモヤっとした気持ちになりながら、俺は天界から渡されたスケジュール帳を取り出し、明日の欄に「15-17 降水量ゼロ」と書き込んだ。
【もう一つの物語】
高校生のころ、僕には居場所がなかった。
学校では、クラスメイトに執拗にからかわれたり持ち物を隠されたりした。僕にとっては、およそ居心地の良い場所ではなかった。
家に帰ると、その事情をまったく知らない家族が楽しそうに談笑している。一家団欒の輪の中に入りたくても入れず、すぐに自分の部屋に籠ってしまう日常だった。
ある日、どうしても眠れなくてラジオをつけてみた。いろんな番組をザッピングする中、気になる言葉が耳に入ってきた。
「がんばってもいいし、がんばらなくてもいいじゃない。前向きでも後ろ向きでも、どっちでもいいんだよ。明日も明後日もここで3時間くらい話してるから、よかったら好きな時に聴きにおいでよ」
それは、月曜から金曜の深夜2時から5時まで1人のパーソナリティが進行している番組だった。おそらくは番組に寄せられたメールへの言葉だったんだろうけれど、それはまるで僕に向けて話してくれたように思えた。
その日から、僕はその番組を欠かさず聴くようになった。次の日の朝、起きるのは辛いけど番組を聴く前より心は少しだけ軽くなっていた。逆に、学校で起こる問題は日に日に増していた。先生側も、寡黙で暗い僕にも原因があるかのような口ぶりで、自分ではもうどうしようもなくなっていた。
僕は、生まれた初めてラジオ番組にメールを送った。この番組が心の支えになっていること、今はどこにも自分の居場所がないこと、生きてるのが辛いけど番組を聴きたくて生きている、でも辛い、どうすればいいのか…とにかく今、自分が思っていることを全て書き連ねて伝えたい。そんな気持ちだった。
その日の夜、いつものように番組を聴いていると何処かで聞き覚えのあるラジオネームが呼ばれた。あの、僕の拙いメールを放送中に紹介してくれたのだ。しかも、今度こそ本当に僕に向けて、あのパーソナリティさんが語ってくれたのだ。
「この番組を聴くためにどうか生きていて欲しい。君が生きるためにここが大切な場所だというのなら、僕はそういう場所で在り続けるように精一杯努力する。君にはその道のりを見届けて、いや、聴き届けてほしいんだ」
涙が止まらなかった。こんなふうに、僕の気持ちを真正面から受け止めてくれる人は、家庭にも学校にも周りのどこにもいなかった。そして、見ず知らずの僕のために「精一杯努力する」なんて言ってくれる人は、この先もう現れることはないだろう。
この日、僕は誓った。たとえ辛いことが多くても、この先もずっとずっとこの番組を聴くために生きていく。
そしていつか、あのパーソナリティさんに直接会ってお礼の言葉と、いつか僕もラジオの「そちら側の人」になって、あなたと一緒に番組を作りたいって夢を伝えるんだ。
※2023年9月3日付【心の灯火】のもう一つの物語です