蟹食べたい

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10/27/2024, 12:32:46 PM

10/27 「紅茶の香り」

100立方メートル。
全面フルスクリーンの自室で映し出された人工の大自然を眺めながら紅茶を注ぐ。
ダージリン、ジャワ、セイロン。
匂いと記憶は深く結びついている。
アールグレイ、ドワーズ、リゼ。
だから、僕にとってこれはいくつもの生を超えて幾重にも積み重なった膨大な記憶の中から大切なものを掘り起こすための一種の儀式なのだ。
キームン、ニルギリ、アッサム。
大きめのソファのような機械に腰掛け、お気に入りの茶葉と比べれば幾らかちんけなティーカップにそっと口をつける。
爽やかな柑橘系の香り。
思い起こされるのは夕日とそよ風、木々のざわめきと最愛の人の声。
人気のない丘の上。小さな一軒家でのもう誰一人覚えていない、かつて英雄と呼ばれた男の穏やかな最後の記憶。
何よりも大切で忘れたくない。
僕の多すぎる記憶の中でただ唯一、掛け値なしに幸せだったとそう断言できる宝物。
ゆっくりと味わい、喉を濡らしながら思い出ごとそっと飲み込む。
温かな気持ちで心が満たされた。
コトリと小さな音を立てて空のティーカップを机に置き、次のカップを手に取る。
新たな香りとともに思考が再び微睡む。
わずかに香るレモンの香り、思い起こされるのは焦燥と使命感。そして深い絶望。
世界を包んだ呪いとそれらに抗った名も無い研究者たちの敗北と狂気の記憶。
正攻法では世界が救えないから邪道を進まざるおえなかった。
後悔はない。あれは唯一にして最善の方法だったと今ですらそう思う。
苦い思い出とともにそれを飲み干す。
深い絶望を突きつけられた時、人は生きる為に上を向くことを強要される。
それがいいことなのかは僕には分からない。
けれど、こんな呪いにまみれた世界でも人が人として生きていられているのだから、それは強ち悪いことではないのかもしれない。
そんなことを思いながら次の香りに手を伸ばす。
甘いりんごに似た優しい香り。
思い起こされるのは諦観とある種の決意。
終わらせてしまった世界を救う。
色褪せて錆びついて、それでも尚無視することのできない決意だった。

500年以上も昔、世界を支配した魔王は死に際に世界を呪った。
魂の停滞と忘却の消失。
命は生まれ変われど魂は囚われ、記憶だけが無限に蓄積する。
繰り返される生に人は自身を定義できなくなった。
その思い出が、感情が、今の自分のものなのか、前の人生での経験なのか区別がつかなくなり多くの人が発狂した。
そこでとある研究者が研究の末ある悪魔の機械を発明した。
記憶は消すことはできない。けれど、移し替えることは出来たのだ。
人から人へ一方的に記憶を押し付ける。
押し付けた側は今の人生での記憶以外を完全に失い、押し付けられた側はその全てを自身の記憶として受け継ぐ。
呪いのせいで記憶の蓄積に上限はない。
一人の犠牲で狂気に染まった世界を救う悪魔の機械。
魔王を倒した僕こそがその責任を負うべきだと思った。
だから、僕が作り出した悪魔の機械の最後の部品として僕は僕自身を設定した。
積み重なった膨大な記憶を引き継ぐ器として生きることを自分で選んだ。
「きょう…も、あたらしい、いのち…が、うまれたんだ…ね」
ソファの様な機械に身体を預け、スイッチを押す。
記憶が僕の中に流れ込む。
知らない誰かの人生の記憶。
流れ込んで混ざって消えていく。
僕という存在が少しずつ薄くなっていく。
消えゆく意識の中で爽やかな柑橘系の香りが鮮明にあの日の景色を脳裏に描き出した。

10/26/2024, 2:08:35 PM

10/26 「愛言葉」

合言葉を決めよう。
遠い夏の日、古臭い思い出の中、僕達だけの秘密基地の中で君がそう言い出した。
僕は君の提案に対して沢山のアイデアを提供した。
当時好きだったアニメのセリフや、興味があって調べていた花言葉、ちょっとカッコつけた恥ずかしい合言葉もいくつか口に出したりもした。
そんな僕の言葉に君はクスクスと笑いながら眩しいくらいの笑顔を見せてくれた。
今思えば僕はその笑顔が見たいがために色々と足りない頭をひねって少しでもユーモアの効いた回答をしようとしていたのだろう。
君と過ごした時間、君の笑顔、交わした言葉、そのどれもが綺麗すぎて今では触れることすら出来ない大切な宝物だ。
結局合言葉は君がたった一つ提案したものがそのまま採用になった。
あのときの僕はきっと君がどんな合言葉を提案したとしても手放しで称賛し、採用したと思う。
君が作ってくれたものがとても愛おしく感じたから。
どんな形でもいいから残しておきたいと思ったから。

だから、そう。これはただの偶然なのだと思う。

「…ひとりで、来てくれたんだ。そうか、そうだよね、君ならそうする。そうしてくれるって信じてた。だから私は安心してここまで来れたんだよ…」

血雪姫、美しき殺人鬼、変革者、世紀の大量虐殺者。
そのどれもが彼女を形容する言葉だ。
今日ここに至るまで49人もの、しかもそのどれもがこの国に絶大な影響力を持った権力者、それらを巧妙な手口で殺害し、この国の基盤を良くも悪くも崩壊させ、一つの時代にピリオドを打った張本人。
最初から、と言えるほど僕は優秀ではない。けれど、事件の捜査線に彼女の名前が上がったときから何となくそんな気がしていた。
自分の直感が外れていることを証明しようとして行った捜査は、その全てがどうしようもなく的確に彼女が一連の事件の犯人だということを示していた。
だから、僕は決意した。
虚偽の情報の申告、無断での武器の持ち出し、相棒を騙すような形での単独行動、更には、相手が大量殺人鬼とはいえ、僕はこれから人を殺そうとしている。
カチャリ
撃鉄を起こす。
今まで、そして、これからも使うことはないと思っていたそれを、明確な意思を込めて彼女に向ける。

「ごめんね、本当はわがままなんて言えるような立場じゃないってわかってるけど…やっぱり最後は君がいいな」

彼女は笑った。
遠い思い出に焼き付いた、あの眩しいほどの笑顔で。

「ねぇ、【私のお願い、叶えてくれる?】」

「あぁ…【きっと必ず、誰よりも上手に叶えてみせる】」

ゆっくりと、目をそらさず。
僕は引き金を引いた。