10/27 「紅茶の香り」
100立方メートル。
全面フルスクリーンの自室で映し出された人工の大自然を眺めながら紅茶を注ぐ。
ダージリン、ジャワ、セイロン。
匂いと記憶は深く結びついている。
アールグレイ、ドワーズ、リゼ。
だから、僕にとってこれはいくつもの生を超えて幾重にも積み重なった膨大な記憶の中から大切なものを掘り起こすための一種の儀式なのだ。
キームン、ニルギリ、アッサム。
大きめのソファのような機械に腰掛け、お気に入りの茶葉と比べれば幾らかちんけなティーカップにそっと口をつける。
爽やかな柑橘系の香り。
思い起こされるのは夕日とそよ風、木々のざわめきと最愛の人の声。
人気のない丘の上。小さな一軒家でのもう誰一人覚えていない、かつて英雄と呼ばれた男の穏やかな最後の記憶。
何よりも大切で忘れたくない。
僕の多すぎる記憶の中でただ唯一、掛け値なしに幸せだったとそう断言できる宝物。
ゆっくりと味わい、喉を濡らしながら思い出ごとそっと飲み込む。
温かな気持ちで心が満たされた。
コトリと小さな音を立てて空のティーカップを机に置き、次のカップを手に取る。
新たな香りとともに思考が再び微睡む。
わずかに香るレモンの香り、思い起こされるのは焦燥と使命感。そして深い絶望。
世界を包んだ呪いとそれらに抗った名も無い研究者たちの敗北と狂気の記憶。
正攻法では世界が救えないから邪道を進まざるおえなかった。
後悔はない。あれは唯一にして最善の方法だったと今ですらそう思う。
苦い思い出とともにそれを飲み干す。
深い絶望を突きつけられた時、人は生きる為に上を向くことを強要される。
それがいいことなのかは僕には分からない。
けれど、こんな呪いにまみれた世界でも人が人として生きていられているのだから、それは強ち悪いことではないのかもしれない。
そんなことを思いながら次の香りに手を伸ばす。
甘いりんごに似た優しい香り。
思い起こされるのは諦観とある種の決意。
終わらせてしまった世界を救う。
色褪せて錆びついて、それでも尚無視することのできない決意だった。
500年以上も昔、世界を支配した魔王は死に際に世界を呪った。
魂の停滞と忘却の消失。
命は生まれ変われど魂は囚われ、記憶だけが無限に蓄積する。
繰り返される生に人は自身を定義できなくなった。
その思い出が、感情が、今の自分のものなのか、前の人生での経験なのか区別がつかなくなり多くの人が発狂した。
そこでとある研究者が研究の末ある悪魔の機械を発明した。
記憶は消すことはできない。けれど、移し替えることは出来たのだ。
人から人へ一方的に記憶を押し付ける。
押し付けた側は今の人生での記憶以外を完全に失い、押し付けられた側はその全てを自身の記憶として受け継ぐ。
呪いのせいで記憶の蓄積に上限はない。
一人の犠牲で狂気に染まった世界を救う悪魔の機械。
魔王を倒した僕こそがその責任を負うべきだと思った。
だから、僕が作り出した悪魔の機械の最後の部品として僕は僕自身を設定した。
積み重なった膨大な記憶を引き継ぐ器として生きることを自分で選んだ。
「きょう…も、あたらしい、いのち…が、うまれたんだ…ね」
ソファの様な機械に身体を預け、スイッチを押す。
記憶が僕の中に流れ込む。
知らない誰かの人生の記憶。
流れ込んで混ざって消えていく。
僕という存在が少しずつ薄くなっていく。
消えゆく意識の中で爽やかな柑橘系の香りが鮮明にあの日の景色を脳裏に描き出した。
10/27/2024, 12:32:46 PM