『どこ?』
春に出会った貴方はとても穏やかな人でした。
ふわっと香る柔軟剤と、低くて優しい声の貴方。
少しおしゃべりで冗談がお上手なお方でした。
時々毒舌なところもありましたが、決して人を傷つけることを言わず、むしろいじめやら陰口やら、そういった類のものを嫌う人でした。
私は貴方との日々を重ねるにつれどんどん惹かれていき、いつしか片想いをしておりました。
貴方の横顔に思いを馳せ、次に会える日を楽しみにし、毎晩貴方のことを思って眠りにつくのでした。
この恋はいつ叶うのやら、私は臆病な人間です。
全く貴方への一歩を踏み出すことができないまま
月日は巡り、貴方は新たな道を歩み始めました。
旅立つその日、卒業される先輩方の胸元には誇らしげに桜が咲いておりましたが、貴方のものが他の方と比べて一等美しく感じられました。
シワのない重厚な黒い学ランにピカピカと輝く金のボタン。貴方だけが私には光って見えたのです。
その日の帰り道。私は真っ直ぐ家に帰る気になれずぼんやりと寄り道をいたしました。
河川敷に咲く早咲きの桜は満開ではらはらと花弁を散らしており、隣を流れる川をほのかな桃色に染めていました。
川に沿って歩き続けていると五十メートル程先にある橋の下から声が聞こえてきました。
好奇心に負けた私はそっと影から覗きました。
そこに居たのは私の恋する貴方でした。
貴方は人を殴っておりました。
顔を殴って、腹を蹴って、ボロボロの相手に止まることなく手を上げておりました。
怖くなって逃げ出した私は足元の石に気づかず、つまづいて転んでしまいました。
あっという声を出してしまい、貴方はこちらをちらりと見て近寄ってきました。
気づかれてしまった、どうしよう、どうしよう、どうしよう。
そう焦る私を見つめる貴方の瞳は私の知っている貴方ではありませんでした。
明るくて太陽なような貴方の瞳は、真っ黒に染まり冷たく鋭い氷のようでした。
あぁ、私の恋した貴方は、どこ?
2025.03.19
25
『叶わぬ夢』
死を間際にして思い出すのはどの瞬間でしょうか?
第1志望の学校に受かったとき?
一世一代の告白をしたとき?
振られて朝まで泣いたとき?
大会で優勝して嬉し泣きをしたとき?
一生を共にしたいと思える人と出逢えたとき?
私が思い出すのは貴方と過ごした日々です。
出会った瞬間
初めてのデートで映画を観たとき
夕日を浴びながら海辺を歩いたとき
遊園地で大きな花火を見たとき
記念日を大切に祝った日
そのどれもが私の大切な思い出で宝物でした。
その全てを愛していました。
ずっと幸せでした。
愛する貴方とそばにいられた日々が私の幸せだったんです。
忘れられない思い出をありがとうございました。
貴方とは一生を誓い合いましたね。
生涯大切にすると貴方は言ってくれました。
その言葉が私は本当に嬉しくて、今でも思い出して泣きそうになるのです。
結婚して、子供は2人欲しいなと貴方は言いましたね。
それでも、ごめんなさい。
私では叶えてあげられませんでした。
ずっとどこかで分かっていたのです。
自らの意思でこんな選択をするなんて、貴方はきっと怒るでしょうね。
それでも過去の私との約束なのです。
貴方との約束はどれも叶わぬ夢でした。
幸せな夢を見させてくれてありがとう。
ごめんなさい。
さようなら。
身勝手な私を、貴方を独りに置いて逝く私を、
どうか許してください。
貴方へのこの気持ちだけは、本物なのです。
2025.03.17
24
『君を探して』
君が桜に攫われて8年が経った。
僕は今でも君を探している。
思い出の場所も、君の故郷も、いつか行ってみたいと話していた場所も、その全てに君はいなかった。
どこを探しても君は、僕の思い出の中にしか存在しなかった。
この春でついに9年目になる。
僕はもう大人になってしまった。
夜の公園で2人、大人になりたくないって泣いた日があったね。
ねぇ、大人になっちゃったよ。
あんなになりたくないって願ってた大人になっちゃった。
本当はもう分かってたんだ。
この世界のどこを探しても君はもういないって。
僕がどれだけ歳をとって大人になってしまっても、君は子供の、あの日のままなんだって。
それでも見ないふりしてた。
分からないふりをしてたんだ。
だって、認めてしまったら、君のいない世界を認めてしまったら、今度こそ本当に君が消えてしまうような気がしたんだ。
僕はね、君に逢いたいんだ。
だけれども行き方がわからないんだ。
どうすれば君に逢えるの?
生き方も、逝き方も、何もわからないんだ。
君のいない世界は、寂しいよ。
心にぽっかり穴が空いて、その空白は何をもってしても埋めることができないんだ。
つまらない大人になってしまった僕は君に嫌われちゃうかな。
僕はまだ君を探すことをやめられそうにないよ。
2025.03.14
23
『透明』
まぶたを閉じれば、そこにはいつでも君がいた。
小柄で華奢な君には少し大きい傘をくるくると回して、楽しそうに歩く君がいる。
君はとても純粋な人だった。
真っ直ぐで優しくて、笑顔の可愛らしい人だった。
僕の感情を見つけてくれた人だった。
朝から雨の降るある日のこと。
僕は次から次へと降ってくる雨粒を前に立ち尽くしていた。
下駄箱に捨てられた紙くずや消しカスのゴミたち。
消えない落書き。
隠された外履きと盗まれた傘。
どうすることもできず、ただ空を眺めていた。
もう、諦めて上履きのまま濡れて帰ろうか。
そう思った時だった。
「ねぇ、一緒に帰らない?」
君が声をかけてくれたのはこれが初めてだった。
僕は断った。あいつらに見つかって、君まで同じ扱いを受けることになるのは避けたかったからだ。
それでも君は優しく微笑んで
「私の傘大きいの。1人だと寂しいから、ね?」
パンっと開いた傘は確かに少し大きかった。
そうして僕らは同じ傘の下、歩き出した。
「あ、見て見て」
君に促されて上を見上げる。
いつの間にか桜の花びらが傘に張り付いていた。
はらはらと散る桜とぽつぽつと降る雨が透明の傘に当たる。
綺麗だと思った。
そんな感情はとうの昔に失われたと思っていたのに、君が見つけてくれた。
家まで送ってくれた彼女の後ろ姿を眺める。
桜の花びらが着いた傘をクルクルと回す背中になぜか目が離せなくて、忘れられなくて。
もうひとつの感情が僕の中で動き出した気がした。
2025.03.13
22
『星』
俺は今、廊下を走っている。
それはそれは、とても全力疾走で、振り向くと後ろから生徒指導の先生が追いかけてくるのが見える。
それでも俺は立ち止まる訳には行かなかった。
なぜなら俺は、別の棟にいるあいつに伝えなきゃいけないことがあるからだ。
それは今夜、快晴の中で満月を観測できるということだった。天文部の俺たちは夜桜と満月の組み合わせを撮りたくてここ数日ずっと天気予報とにらめっこしていた。
何とか先生を撒いて、特進クラスの教室をガラッと勢いよく開く。クラスの人が一斉にこっちを向き、静寂の中に
「今夜、20時に屋上で!!!」
という俺の声が響く。そしてあいつの返事も待たずに俺は次の授業のチャイムに急かされて、また自分の教室に戻った。
約束の20時。
屋上の古びた重いドアが軋んだ音を鳴らしながらゆっくり開いた。
そのまま言葉を交わすことなく2人で大きな望遠鏡を組み立てる。
完成した望遠鏡は俺よりも大きくて年季が入っている。
いつものように見えた星をスケッチして、春の夜空を紙に残す。
それから俺らは校庭に移動して、大きな桜の木の下に行く。お互いやっぱり無言のままでカメラを構える。
何枚かシャッターを切って、ふと顔を上げた。
斜め前にカメラを構えるあいつがいる。
風がふわりと吹いて桜の花びらを散らす。あいつの長い前髪もさらって普段は隠れている顔が露になる。
綺麗な横顔だと思った。
月明かりに照らされる夜桜に負けぬような美しさを感じた。
でも俺は知っている。あいつは卒業とともに上京をする。
また夜風が二人の間を抜ける。叶わぬ恋もさらってしまって欲しかった。
俺らを繋ぐのは、夜空に輝く星だけだった。
2025.03.11
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