湯船遊作

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10/29/2023, 1:51:24 PM

もう一つの物語

弁当を作って、朝食を作って、皿洗いをして……
結婚生活3年目の日常である。
丹原 美咲(たんばら みさき)は結婚して3年の主婦である。子供はいない。まだしばらく予定もない。
元々は雇われのライターだったものの、夫の強い要望によりやむ無く主婦になった。
「貴女を外に出したくない!」
婚前、彼はそんなことを言った。
「どういう意味よ」
「家にいてくれ!」
「仕事があるし無理よ。明日も打合せがあるの」
「なおさら家にいてくれ!」
駄々をこねる彼の言い分にイマイチ要点を得ない。
「どうしてよ!」
「何だっていいだろ!」
「なんだってじゃ嫌よ! 私、仕事好きなの。沢山の人に話を聞いて、沢山の出会いを記事にしてるのよ。楽しいわ。楽しいだけじゃない。誇りだってある!
貴方だって、『素敵な仕事だね』って言ってくれてたじゃない!!」
「それは今もそうだけど……!」
「じゃあ何が問題なの!」
いま思えば私は馬鹿だった。
結婚を前にした彼の不安を全くわかっていなかったのだから。
そんな馬鹿な私に、
「綺麗だから!!!」
彼は馬鹿正直に言った。
フフフ――
お茶を啜りながら、昨夜に届いていたメールを見る。
ライター時代の後輩からだった。
彼女は私の寿退社を誰よりも懸命に止めようとしてくれた人だ。
「仕事続けましょうよ! 丹原さんならwebディレクターになって、プランナーになって、どんどん昇進できますから!」
って。
随分と会っていない。
こうして連絡を貰うのも、仕事を辞めてから初めてだった。
「あら、そうなの」
どうやらWebプランナーに昇進したらしい。
また、近いうちに独立するからぜひ力を貸して下さいとの事だった。
「……悪くないかもね」
彼女のことだから、きっとそれなりの席と開けた道を私に与えてくれるだろう。
沢山の人に囲まれて、誇り高き仕事をして、相応の報酬を貰う。
そんな未来も、悪くないかもしれない。
でもね、
「私、馬鹿なのよ」
底に残ったお茶をグイッと飲み干す。メールを閉じると、洗濯機のブザーがなった。

10/28/2023, 1:35:03 PM

暗がりの中で

土倉に閉じ込められて何時間経ったのだろうか。
そろそろ限界である。
僕はチョークで地面に父の似顔絵を書いていた。似顔絵にイタズラするためである。
元はといえば、父がテストの点数についてアレやコレやと必要以上に文句を言ったからだ。
あの時の僕の気持ちを、貴方はしらないだろうけどね。
父よ、僕は怒っていたんだぞ。頑固なアンタにゃ何を言っても分かんないでしょうけど、僕は怒ってるんだ。
居間に正座した僕の正面。ガシガシと叱る父の背中の掛け軸。
「大切なものだ」
父さんはいつかそんなことを言ってた気がする。
父さん。僕も大切なものがあるんだ。
それは例えば学校の宿題を忘れたら無くしてしまうくらいに脆くて、触れられると毛が逆立つくらいに大切なものだ。
それを貴方は侵犯したんだ。
でも父さんには分からない。僕の怒りが、分からない。
だから教えてやるんだ。
そうして僕は掛け軸を破いて、この土倉に閉じ込められた。
さて、そろそろ出来上がるかな。
最後に眉を書くと、床には父さんそっくりの似顔絵が出来上がった。
掛け軸破いても分からないならこうしてやる!
「おりゃ! くらえ!」
僕は小便した。
僕は悪くない。
だって元はといえば、テストの点数で僕を必要以上につついたのは父さんなんだから。
掛け軸を破いた僕の怒りに気が付かないのは父さんなんだから。
そのときだった。
「言いすぎた。……蕎麦でも食いに行かないか」
父さんの声と共に倉の扉がそっと開いたとき、僕のそれはまだズボンの外だった。