もしも未来を見れるなら、
自分が死ぬ日を知りたいです。
他はなにを見ても楽しみを失ってしまいそうなので、終わる時だけを知っていれば多少生きやすい考えを持って歩けそうなものです。
これは関係の無い話ですが最近イマジナリー犬のおかげで精神衛生が良いです。ビーグルの子犬です。
夢を見ることは最近はもうありません。
ホラーゲームが顔を出すことが稀にありますが、前のような無秩序なつぎはぎの世界の記憶が残っていることはもうないんです。
とても残念に思います、私の脳みそはもう子供ではないのでしょうか。
あの夢の世界の不可思議でつぎはぎの構造物の世界が私は大好きです。
現実にあんな建物にいるのは足がすくんで無理でしょうが、夢の中の私はそれが普通であるように柵から身を乗り出して辺りを見回して、目が覚めてからその建物群を思い出して惚れ惚れとするんです。
あんな世界を私も作りたいものですが定規で線を引くことすら不得手で、ストレスを貯めてしまう私にはしばらく無理でしょう。
しようしようと思っているパースの勉強はちっとも進んでやいません。
どうせなら絵より自由に動き回れるゲームがいいですが、3Dは少し違う気がします。
視点の移動を考慮して手ずから描くのが理想でしょう。
ゲームに関わることが私の1番の夢ですが、理路整然とした細さもなくもたもたとブラシを重ねているのでは終わりも始まりも検討がつきません。
なにか私の手元に大事な物があったでしょうか。
子供の思うようなキラキラとした宝物は持っていた記憶がありません。
強いていえばこの体でしょう、大切というより無くなって困るものですがこの目が見えなくなるか、あるいは手が動かなくなって、視界にうつる自分の体が醜く赤く爛れでもしたら柵の上の背中を押される理由には十分です。
また母の話ばかりになってしまうのですが、私自身が母にとっての大切なものである自覚はあります。
最近やっと身に染みています。
何度が母の弱音を見て聞いたことがありますが、それでも片手ほどで、生まれてこの方ずっと傍にいて私が受ける理不尽までも背負ってなお毎日あれほど力強く笑うアグレッシブさはとても血が繋がっているとは思えません。
父方の弱い血ばかり真似てしまっているような気がします、父の血は要らないので母のような人になりたいです。
私の1年分くらいのエネルギーを毎日フル回転させる母に追いつけるとは到底思えませんが。
情緒1年生の私にはまだ大切な人という感覚がきちんと理解出来ていません、まだその言葉がしっくりとは来ないんです。
でも母の愛のおかげで私はまだ生きています、のんびりゆっくりとでしかありませんが確かに階段を登っています。
こうしてずっと緩慢なままで居られない事は理解していますが駆け上がるような真似はもう出来ません。何度も背伸びをして転ばなかった記憶は1度もありません。もう背伸びをすることが怖いんです。
このままでは決して同世代の子のように立派な人にはなれないでしょうが、直ぐにでも落ちて親不孝をするよりはまだこの方がマシだと。
自分が居なくなれば親も喜ぶという考えを最近やっと半分否定できるようになりました。
このままでいたいんです。少なくとも消えたいとは思いません。
自分が遅れていることは理解していますが、最良でなくとも私は生きていたいです。
どの方向からアプローチしようとも申し訳程度のメリーバッドしか私の山札にはないでしょうから、諦めて進めます。
諦めも肝心です、真面目に執着すればするほどどつぼに嵌ってバッドエンドまっしぐらな思考回路なもので。
今手元のキーボードに推しがいるので、この子の事を考えるのですが、この子にとってのハッピーエンドはなんでしょう。
おそらくエンディングなど意に介さないでしょう。
今のあの子はとても楽しそうですから、このままこの子のままでいいのでしょうね。
個人的にこの手の子は珍しいものです。
傍若無人っぷりは難儀ですがあの独立独歩を、少しは見習いたいと常々思っています。
が、意識すればするほどに独立独歩という型にはまろうとして独立独歩ではなくなりどんどんと無意味にするどくなってしまっています。
多分この手の思考である時点でだめです。
諦めます、諦めは肝心です。
この目標は手段かつ中継地点に過ぎないことを忘れてはいけません。
私が目指すのはハッピーエンドでしょうか?
あの子のような独自の道をひたすら進むわけでもありません。過ちに怯えてばかりでレールの上を辿るのに精一杯になっていて、6年かけてやっと捨てたはずの未練はいまだに私のすぐ近くにいます。
きっとこれらを排除して私は皆さんと同じスタートラインにつけるのでしょう、いつか、たぶん、きっと。
見つめられると、とても参ってしまいます。
こちらを見つめる目線にとても弱い自覚があります、私は子犬を健康的に飼うことはまず出来ないでしょうし、わが子を厳しく叱ることも出来ないでしょう。
子犬が愛おしくて仕方がありません。
あのくりくりの目とちいさなあんよが今隣にいてくれればこの気圧で軋む関節の鈍痛も吹き飛んでくれそうなのに……。
大人の目を見る事を拒否して眉間のシワをよく観察するようになってしばらくたちます。
この緊張しいの為のライフハックに無意識に頼りきってしまって、もうそれを知る前の感覚は記憶にありません。
人を見つめることになんの意味があるのでしょうか、恋慕でしょうか警戒でしょうか。
そう想ったことはあっても見つめてみたことはありません、子犬の忙しないしっぽくらいです。
私が思っている以上に人が人を想う気持ちは力強いものだと、最近よく驚かされます。
私があまりに無関心すぎやしないかと人の真似をして人を想っては、芝居がかりすぎだと心がわらいますが、結局母や友人に会う度にまた驚かされることになるのです。
今度会った時、母の目だけでも1度見てみようと思います。