カレンダー
日曜夜の23時、突然友人から電話がかかってきた。友人は「遅くにごめん、今大丈夫?」と簡素な確認を済ませると、何やら重々しくこう切り出した。
「なぁ……日めくりカレンダーって、夜のうちにめくった方がいいよな?」
知らん。俺は朝派だ。わざわざ電話をかけてきて何の話だ。
深刻そうな喋り口なので、俺は思ったことを3重くらいのオブラートに包んで伝えた。それに対する相手の返答はこうだった。
「いや、俺は夜派なんだよ。明日に備えて気持ちを高められる気がして」
そう思うならそうすればいい。なぜそんなことを伝えるために電話をかける?
段々オブラートも外れてきて、少しきつい言い方になってしまったかもしれない。相手は弱々しく電話先で嘆いていた。
「でもさぁ、めくれないんだよ。明日が来るのが怖くて」
「怖い?」
「明日試験本番だからさぁ……」
あぁそうか。そういえばそんな話をしたことがある。こいつの所属する学部は卒業前に国家試験を受ける。その本番が明日だというのだ。
「じゃあもうめくらないで明日に備えて寝ろよ」
「でもさぁ! 日めくりカレンダーって、1回めくらなくなったらもう二度とめくらないだろ」
「そんなことないと思うけど」
「この日めくりカレンダー、家族からの贈り物でさ。毎日応援メッセージが書いてあるの」
「毎日!? やっべーな」
「だから1日たりとも逃したくないんだよな」
随分な愛され様である。俺は呆れてついため息をついてしまった。
「知らん。もうとっとと寝ろよ。じゃあ切るぞー」
「待て待て待て! おい、なぁ、俺に貸しがあるだろ? ずっと勉強教えてやったじゃんか!」
それを言われると弱い。たしかに分からないことがあればいつも彼が教えてくれた。そういや23時にこちらから電話をしたことも一度や二度ではない。
その時々でジュースを奢ることで貸し借りなしと勝手に考えていたが、向こうがそれに納得しないと言うなら従うほかない。
「分かったよ……。でも俺に何をしてほしいんだ」
「カレンダーめくるまで電話切らないで! それだけでいい!」
「へいへい」
俺は少し電話を切らなかったことを後悔した。そんなことなら俺がいてもいなくても同じだろ。こいつはすごく優秀なやつだが、たまに女々しくて臆病なところがある。
「よ、よし、めくるぞ! めくるぞ!」
「とっととめくれって」
電話の向こうでずっと独り言が聞こえている。カレンダーなんかよりもずっと気にするべきことが山ほどあるんじゃないのか? こんなことに時間をかけてる場合じゃないだろ。
もう少し喝を入れようかと悩んでいると、電話口から紙の破けるような音が聞こえた。同時に「あぁー!」と嘆き叫ぶ声が聞こえる。もう俺は我慢の限界が来てしまった。
「なんだよ!」
「『試験頑張って』って書いてある……」
「そりゃそうだろ!」
「もう無理だぁ! 寝れない! 頑張れない! 落ちる!」
「あーもう! 寝ろ! 頑張れ! 受かる! 泣くな!」
相手がすすり泣きしている声が聞こえて思わず声を荒げてしまった。もう少し優しい言い方をしてやればよかったと後悔していると、か細い声で「とりあえず寝る……」と聞こえてプツッと電話が切れた。
およそ1ヶ月後、彼から無事合格したという知らせと同時に1枚の日めくりカレンダーを持って満面の笑みを見せる彼の写真が送られてきた。
「試験頑張って」という言葉の下に「寝ろ! 頑張れ! 受かる! 泣くな!」と彼の直筆らしき文字で書かれている。泣くな!はそこに入れていいのか?と疑問には思ったが、彼から今度ジュースを奢ると言ってもらって全て良しとすることにした。
やるせない気持ち
祖父が亡くなった。なぜ私より先に祖父が旅立つのだろう、なんて、60歳もの年齢差を考えれば問うまでもないことなのだけれど。
しかし、片や30を過ぎても職につかずフラフラしている怠け者、片や70過ぎまで業界の最前線で活躍し90になっても皆に慕われた働き者となれば、この寿命という不条理にやるせない気持ちを抱くのも自然なことではなかろうか。
こんな無益な思慮を他人に話すわけにもいかず、私は表向き淡々と火葬される祖父を見送った。
「ねぇ絵美、遺言書に変なこと書いてあったらしいんだけど。あんた向けに」
姉にそう言われたのは火葬から2日経った日のことだった。
遺言書に書かれていたのは私宛ての暗号のような文章だった。
内容を理解するのにそう時間はかからなかった。幼い頃祖父と私で描いた絵本の内容に沿って一部が伏せ字にされていた。20年以上前のことを覚えている私も私だが、90になっても記憶がここまでハッキリしている祖父も祖父である。
遺言書に示された場所は、祖父の家の裏にある何が入ってるんだか分からない倉庫だった。中に入るのは初めてだ。おそるおそる扉を開けると、鍵はかかっていなかった。
中は薄暗く埃っぽい。しかし、思いの外整頓はされている。
木製の棚の上に、大きな茶封筒が一つと便箋が置かれていた。
「おじいちゃんは、絵美ちゃんには才能があると思います。2人で考えたこの絵本が大好きです。そんな絵美ちゃんがいつも『私には何もできない』と言っていて、おじいちゃんはとてもやるせない気持ちになります。」
私宛ての手紙だ。すごく申し訳ない、という気持ちは次の一文を読んで消し飛んでしまった。
「だから、絵美ちゃんと作った絵本、賞に出す準備を整えておきました。あとはポストに入れるだけです。ファイティン!」
「え!?」
まさかこの茶封筒。慌てて宛先を確認すると、何やら有名な出版社の名前が書いてある。
待って、勝手なことしないでよ。そう思うと同時に浮かんできたのは、「出すならもっといいものを描くよ!」という気持ちだった。
あぁ。もう。早く手直ししよう。締切はいつまで?
急いで持ち帰ろうとする、そのときにはもうやるせなさなど抱く余裕もなかった。
太陽
太陽のように笑う人だ、と彼女は言われていた。
彼女は笑顔が好きだった。人を笑わせるのが好きで、笑顔を広める活動をして、「日本で最も人を笑顔にした人」などという信憑性のかけらもない肩書きさえも我が物にしていた。
ただ、「太陽のように」という形容が、彼女には長い間理解できなかった。
「でも、いいよね。みんなが笑顔になるなら」
気象庁の係員に彼女は話しかけた。それはまるで独り言のようで、なにより勤務時間だし、係の人は戸惑うばかりだった。
「そう思った時期が私にもありました」
彼女は遠い目をしていた。ビルの外は光の粉がまぶされたように眩しく、暑さのあまり空気が揺れている。
「『太陽のように』がまさか温度のこととは思わないよね」
彼女が笑顔を広めたせいで、世界の温度は急激に上昇している。はぁーあ、と彼女はわざとらしくため息をついて、ようやく係員の方を向いた。
「お偉いさんに謝っといて。予測乱しちゃってごめん、って」
彼女はそう言って舌を出して笑った。そして混乱する係の人を置いてビルの外に出ていった。今日はこのあともまだ仕事が残っている。人々に笑顔を届ける仕事が。
もしもタイムマシンがあったなら
タイムマシン。懐かしいな。
たしか、このアプリに登録して2日目のお題が「タイムマシン」だった。
そのときは「タイムマシンができるほどの未来では人々の価値観も変わり、タイムマシンは要らない技術として扱われる」と考えて物語を書いた。今なら違う答えを出せるだろうか。
もしもタイムマシンがあったなら、私は「昨日」を永遠に繰り返すだろう。要らない技術だなんて言わない。些細なことで深い後悔を抱えて眠り、朝起きても後悔が拭えず、耐えかねてタイムマシンに乗る。そうやって「昨日」を繰り返して正解を模索する。結局正解を出せないことに苦しんで、翌朝またタイムマシンに乗る。……うーん、やっぱり要らない技術かもしれない。
あるいは、特に楽しかった1日を繰り返しても良い。つい昨日「何をしていても純粋に楽しめない」だなんて言ったばかりだけど、それでもそこそこ楽しかった日は存在する。そもそも楽しめない理由の根本が「明日が来てしまうから」なので、タイムマシンによってこの問題が解決されるのであれば、永久に楽しい日々を過ごすだろう。うん、やっぱり必要な技術かもしれない。
しかし、もしもタイムマシンが実現したら、きっと争いの火種になるだろうな。以前の作品はそのアンチテーゼとして書いたけれど、あれは所詮ファンタジーだ。悪用されないわけがないんだから。そう思うと、やっぱりタイムマシンは要らない技術か。そう言い切った以前の作品は平和の究極系のような物語だったのだなぁと今さらながら思う。
今一番欲しいもの
今回は創作ではなくエッセイとしての投稿になりそうだ。今回のテーマを見て物語らしいものがまるで思いつかない。それだけ私の中で何か欠けているのか?
今一番欲しいもの。私は今、濁り気のない純粋すぎるくらいの「楽しい」が欲しい。
最近どんなに楽しいことがあっても漠然とした不安や自己嫌悪が心の内に巣食っている。私はここで何をしているのだろう?と思う。どうせこのワクワクも長く持ちやしないだろうと思う。社会の中で生きていることに申し訳無さがある。
好きなことをしているときも、テーマパークなんかに行っているときもいつもそうで、いつしか私は純粋な「楽しい」を信じられなくなった。小さな「楽しい」でさえも失われていく現状が恐ろしくて、気づけば「楽しい」という感情そのものを避けるようになった。
これが「大人になる」ということならば。受け入れろと言われるだろうか。だったら私は「過去の時間」を求めようか。何もかもが新鮮で楽しかった幼き日々に戻りたいと思う日々である。