誰よりも
「誰よりも」という表現は嫌いだ。明らかな誇張表現だから。「誰よりも努力した」「誰よりも好き」「誰よりも知っている」「誰よりも苦労している」。そんな訳ない。80億人の頂点になんて立てない。そもそもそれらは他人と比較するべきものではない。
……それならば、仮にそれらがしっかり数値化されてしまって、順位も表示されるとしたらどうだろうか。
例えばこうだ。努力レベルが数値化され、24時間や1年、一生の合算値ランキングが表示される。世界や国内ランキングで1位になった人は有志によりインターネットにまとめられる。メディアは輝く瞳で彼らに取材するのだが、彼らのすべてが成功しているわけではないだろう。涙ぐましい努力の先にも凡庸な人生が広がっていることに、ある者は絶望し、ある者はそれでも夢を抱く。
気持ちが数値化されたらどうか。人々はランキングを気にするようになり、純粋な想いが失われていくだろう。ランキングは絶えず変動し、あるとき24時間ランキングで世界1位になった者がその後はトップ10000にも入れないなんてことはザラだ。結局一時の話題作りにはなれど、価値あるデータとしては扱われなくなる。そうして人類は葛藤を繰り返し、次第に本来の「気持ち」を取り戻していく。
案外悪い世界じゃないな。今と大して変わらない。
人と比較するのも悪いことじゃないのかもしれない。そんな気持ちになる。面白い思考実験になった。
さて、今後技術革新が起こったらこれらは実現されるのだろうか。
その試みが悪いことだとは今や思わない。ただ、できれば知識レベルと苦労レベルの可視化は見送っていただきたい。順位にばかり囚われて本来持つべき思いやりを見失いそうだ。
10年後の私から届いた手紙
お久しぶりです。なんでこう、私は継続的に動けないのかな。
「10年後の私から届いた手紙」。難しいね。
10年後の私は何をしているだろうか。何度も考えたテーマではあるけど、答えを出すのはなかなか難しい。そんな「相手」から届く手紙など、想像できるはずもない。
ならば、今の私が「10年後の私」だとすれば、まだイメージしやすいだろうか。
10年前は(年齢バレるけど)まだ中学生だ。
そういえば中学の頃は「大人になった私へ」と題してしばしば日記や手紙を書いていた。せっかくなら読み返しながら返信を書きたいものだが、残念ながら今手元にない。今度実家に戻ったら探し出すとしよう。
さて、10年前の私に何か伝えられるとしたら、何を伝えたいだろうか。
一つ伝えるべきは、「あまり悟るなよ」ということかもしれない。
例えば、当時の私は絵を描くのが好きだった。
でも、それを仕事にするのが難しいこと、仮に仕事にできても純粋に楽しめないことを理解していた。適職診断で「クリエイティブなことは向いていない」と言われたこともあり、好きを仕事にすることは早々に諦めた。
別に間違っているとは思わない。でも、それに囚われる必要もないと、今では思う。
好きな絵だけを描いて生活するのは大変でも、絵の何が好きかを深掘れば、「好き」と仕事を繋げることは可能だ。というか、俗に言う就活がそういうものだ。10代半ばですべて諦めることはない。
「クリエイティブなことは向いていない」と言われたことには、10年後の私は納得いっていない。その根拠は「論理的な人だから」だった。納得いかない。
イラストであれば計算された美しい構図を生み出し、物語であれば展開を綺麗に組み立てる。仕事にするならば顧客の要望と新規性をパズルのように組み合わせる。
これらはあくまで一例だけど、なぁ、論理性がクリエイティビティに活かせないと、なぜ思った?
爆発的で情熱的なものを生み出すのは苦手かもしれない。少なくとも私は。でもそういうものばかりが「クリエイティブ」じゃないよね。
クリエイティブに向いていない人なんていない。「やりたい」と思ったらそれが適性だよ。
少し熱くなってしまった。まぁ、「可能性を狭めるな。広げろ。選択肢を絞るのは未来の自分がやることだから」ということです。
もしあなたが10年前の私と同じ状況にいるなら、あなたに向けてこれを届けます。10年後のパラレルワールドの「あなた」から手紙が届いたと思ってほしい。
楽しいことばかりじゃないし苦労はそれなりにしているけど、見ての通り創作活動にも勤しみつつ、何とかやってるよ。これからもっと、純粋な「やりたいこと」に向けてリスタートしようと思ってるよ。10年前の私へ。
旅路の果てに
こんなはずじゃなかった。旅路の果てで一人、そんなことを考える。
目の前に広がるのは黒い世界と見えない壁。壁の向こうは光さえ不確かなのに不定期に何かがチカチカと瞬いて、「無」に思考を支配されて不安な気持ちが押し寄せる。
5億年もあればここに辿り着くはずだった。実際は何年かかった? 計測機器が壊れてしまった。想定以上の時間がかかったことはほぼ確実だ。
僕は宇宙探索のために作られた。思考力を持ちながら寿命のない存在だ。この数億年で何度狂いそうになったか分からない。
「無」の中にまばらに重い物体が転がっている、それが宇宙だ。重い星や硬い氷などにぶつからないよう気を張りながら、気が遠くなる時間をかけて宇宙の果てを目指さなければならない。それが僕の使命だから。
ようやく辿り着いた。長い旅だった。僕を生み出した人々の悲願であり、僕自身の悲願でもあった。それなのになんでこんな気持ちになるんだろう。宇宙の向こう側を見ても、喜びよりも絶望が襲ってくるのだ。
あぁ、このことを僕の産みの親たちに知らせなければならない。
一体何年かかる? こうして悩んでいる間にも僕は故郷から離れていく。宇宙は膨張を続けているから、それに合わせて前に進み続けなければならない。
少なくとも知らせが届くまでに5億年……いや、ここに至るまでにそれ以上の時間がかかったことと、今も宇宙が膨張し続けていることを加味すれば、その何倍もの時間がかかるかもしれない。
産みの親本人はもう生きていないだろう。その子孫でさえ今もいるか怪しい。そもそも知らせが届くまで僕の故郷の星は残っているのか?
ともかく、知らせは出そう。悩んでいる時間はない。
せめて、僕の故郷じゃなくても、どこか他の星に宇宙人がいて、その人たちが僕の知らせを受け取ってくれればいい。何億年の時間がかかっても構わない。
僕は前進を続ける。宇宙の果てを追い続ける。やめられればよかった。寿命がない僕は、真の旅路の果てには辿り着けない。それが僕の使命だから。
あなたに届けたい
難しいな。昨日「曲なんかに出てくる『あなた』に当てはまる人はいない。毎回『自分』に置き換えて聞いている。」と書いたばかりなんだけど。
「作家は経験したことしか書けない」という言葉があるそうだ。私は学校等で習った知識を「経験」として活用しているけれど、人間関係についてはどうも勉強では補えない。
早い話が、今回のお題から何も思いつかない。ボトルメールを軸にして何か書いてみようと思ったが、筆が進まない。少し疲れていて思考力が落ちているのも良くないのかもしれない。
投稿しないという選択肢もあったけれど、内容はともあれうまいこと書いて投稿のリズムだけ崩さないようにしようと思う。せっかく昨日数日ぶりに投稿したからね。
さて、私にとっての「あなた」は「自分」だ。じゃあ届けたいものは何だろう。直感的には「私の気持ち」だと思った。
それではこう考えようか。暗い海の上で、息をしているのは私と「自分」だけである。私は私の気持ちを手紙に綴って海に流した。果たして「自分」はこれを読んでくれるだろうか。
読んでくれないだろうな。
「あなたに届けたい」と希うのは、現状それが届いていないからだ。本来私と「自分」は同一と言ってもいいほど近い存在だが、そんなに近くからメールを出しても届かないというのは、多分「自分」に受け取る意思がないのだろう。あるいは本当に気付いていないのだろうか。
いずれにせよ、簡単には読んでもらえない。どうしたら「自分」に気持ちを届けることができるだろうか。
大きな声に出して伝えるという選択肢がある。これなら相手にその気がなくても受け取ってもらうことができる。
今よりも近くに行くという方法もある。顔をつき合わせて、2人でコソコソ話だってできるかもしれない。
あぁそうか、「あなたに届けたい」と思うなら、手紙を介さず声で伝えてしまうのがいいのか。
私はこれまで手紙を書いて満足していた気がする。届いていなかったんだな。
「自分」と声で対話するために取っている数少ない手段のひとつがこういった執筆であるように思う。だとすれば、私にとって創作の時間はやはりこの上なく大事なものだ。――ということは、私にとって創作とは「『自分』に届けたい」ものなのか?
……もう期限過ぎてるのでここらで切り上げます。
私は自分のために創作をすればいいのかな。うーん。
I LOVE...
何か短編を書こうと試みているのだけれど、最近何も思いつけていない。今日はもうマイルールを無視して日記を書こうと思う。このまま何も投稿しないでいたら、いずれフェードアウトしてしまいそうだ。
3日前のお題は「ミッドナイト」だったか。丁度その日の夜満月だったそうで、満月って日付が変わる頃に南中する(一番高いところに上がる)から、それをテーマに書こうと思った。でもそれ以上思いつかなかった。
その次の日は「優しさ」だっけ。昔下書きした短編で「子どもの純粋な好奇心を大人が優しさと決めつけて、段々純粋な心が失われていく」というやつがあったので清書しようと思った。(改めて見るとなかなかな内容だな。)結局手を付けずに終わった。
昨日はたしか「街へ」だった。これについては本当に何も思いついていないし、思考を放棄していた。もし書くとしたら、新社会人の独白みたいな内容になっていたと思う。
そして今日のテーマは、LOVEか。正確には「I LOVE...」だけど。
自分にとっての「愛」についてはよく悩む。
純粋なLOVEを向ける相手はとっさには思いつかない。曲なんかに出てくる「あなた」に当てはまる人はいない。毎回「自分」に置き換えて聞いている。
家族との仲は良いし、よく遊ぶ友達もいるけれど、「あなた」ではない。恋愛的に好きな人はそもそもいない。
自分自身にだって純粋なLOVEが向いているわけではない。そこにはHATEも含まれている。人以外にも同じで、たとえ好きなものでもその「好き」は純粋なLOVEではない。
私は愛情を持てない人間、というわけではない。むしろ愛は深いほうだと思う。ただ常にそこにHATEもついてくるというだけで。
もし今日のテーマ「I LOVE...」が「I LOVEに続く言葉を考えよ」ということではなくて、「何を続ければいいか分からなくなった様子」を示しているなら私にぴったりだと思う。愛してはいるけど様々なネガティブな感情も同時に含まれていて、「I LOVE YOU.」とはとても言えない。
他人の表現物ですが、お題を見たときからキタニタツヤさんの「I DO NOT LOVE YOU.」という楽曲が頭から離れないので少し触れます。引用にとどめればきっと問題ないでしょう。
歌詞に「I DO NOT LOVE YOU. I DO NOT HATE YOU, TOO.」と言う部分がある。多分私が持つ「愛」はこれに近い。
ここまでの流れも踏まえると「I LOVE YOU, BUT I HATE YOU, TOO.」でも良さそうだけど、それでは少し違うのだ。この辺は感覚的なことなので説明が難しい。「DO NOT」に込められた葛藤や孤独感、劣等感が大事なのかなと思う。逆に言えば、葛藤や孤独感、劣等感こそが私にとっての「愛」の正体かもしれない。
(ちなみに私はキタニさんの曲をよく聞くし、「I DO NOT LOVE YOU.」のような曲を書いてくれたという点で人間としてもある程度信用しているし、キタニさんの変化や行く末をいちファンとして最後まで見届けたいと思っているけれど、それでも彼でさえ「あなた」ではない。)
もう一つ今日のお題を見て思ったことを書いて終わりにする。
このような日記(エッセイ?)や小説も含めて、あらゆる表現物はLOVEの表出である、と思った。
本来ならLOVEはポジティブな意味だけを持つのだろうが、私の感覚ではHATE含むあらゆる感情はLOVEから産まれているように思う。先述した葛藤や孤独感、劣等感もそうだ。
私たちは自分たちのグチャグチャした心、もといLOVEを無理やり切り取って作品を完成させている。そんな気がしたのだ。
以上が私のLOVEに対する雑感であり、私の愛そのものである。
私の愛を読んでくれてありがとう。I LOVE...