『現実逃避』
日々を過ごす中で、漠然と疲れが訪れて逃げ出したくなる時がある。
別に心が病んでいてとか、そう言う訳ではないと思う。ある意味、これを病むというのかもしれないが。
だけど、これはそんな大それたものではなくて、もっと生活に根ざした悩みに感じられる。
毎朝同じ時間にアラームを止め、顔を洗い、決まった手順で一日をこなしていく。そんな「当たり前」を維持するためのエネルギーが、知らず知らずのうちに底をつきかけているような感覚だ。
誰かにひどく傷つけられたとか、人生を揺るがすような悲劇が起きたわけではない。ただ、靴の裏に少しずつ張り付いた泥がいつの間にか足取りを重くするように、日々の些細な摩擦や義務感が、確実に心をすり減らしている。
ん
だからこそ、いま私に必要な「現実逃避」は、鞄一つで遠い異国へ飛び出すようなドラマチックなものではなくていい。
いつもより一杯多くコーヒーを淹れてぼんやりする時間。あえて一駅手前で降りて歩く夜の道。あるいは、スマートフォンの画面を伏せて、ただ部屋の天井を眺めるだけの数十分。
それは現実から完全に目を背けるための逃走ではなく、明日もまた続く現実を生き抜くための、ほんのささやかな「避難」なのだ。そうやって一人きりの場所で静かに呼吸を整えることで、私はまた、この平凡で少しだけ息苦しい生活へと戻っていくことができる。
『太陽のような』
夏の匂いがした。懐かしい匂いだ。まだ一年も経っていないのにそう感じるのはどうしてだろうか、季節は一年かけて巡っていくのだから、一年経っていないのは当たり前なのだが。
そんなことを思い耽りながら、昼下がりに照り光る暖かな太陽の下を歩く。久しぶりに訪れたこの時間に、どこか嬉しく感じてしまうが、同時に心のどこかで、微かな寂しさが影を落としていることにも気づいていた。
見上げれば、芽吹き始めた枝先を揺らす風が通り抜け、陽光がアスファルトに濃い影を焼き付けている。季節は物理的な法則に従って確かに巡り、また新しい夏を連れてこようとしているのに、私の中の時間は過去のある地点からうまく進んでいないような錯覚に陥るのだ。世界が一年かけて一周する間、私だけが同じ場所に立ち尽くしている。
遠くの方で、気の早い蝉の鳴き声が微かに聞こえた気がした。まだ三月にもなっちゃいないのだから、聞き間違いに違いはない。けれど、この頭に巡る空想は、嘘だというには鮮烈だ。
額に少し滲んだ汗を手の甲で拭い、私は小さく息を吐いて再び足を踏み出す。私がここで立ち止まっていようと、時間は容赦なく巡り、否応なしに私を次の季節へと巻き込んでいくのだろう。
そうやって無理やりにでも背中を押されることを、これまではひどく恐れていた。時間が進むほどに、記憶の中の眩しい景色が色褪せていってしまうような気がしたからだ。
けれど、不意に吹き抜けた風の中に、ほんの少しだけ柔らかな土の匂いが混じったことに気づき、ふと足元へ視線を落とす。道端の乾いた植え込みの隅では、枯れ葉の隙間から名も知らない小さな緑が、確かな生命力を持って顔を出していた。それは夏の空想ではなく、冬の寒さを耐え抜いた現実の春の兆しだった。
季節はただ円を描いて同じ場所に戻ってくるわけではなく、螺旋階段のように少しずつ違う景色を見せながら巡っていくのかもしれない。だとしたら、私がこれから迎える季節は、あの日の記憶と決して同じではないのだ。立ち尽くし、過去を反芻していたこの時間もまた、次の一歩を踏み出すために必要な冬の期間だったのだろう。
頬を撫でる風はまだ少し冷たいが、差し込む光はこれほどまでに明るい。顔を上げ、私は早まる鼓動に合わせるように、先ほどよりも少しだけ歩幅を広げて歩き出した。
『0からの』
人生を初めからやり直したいと思ったことが何度かある。そう思うくらいには、失敗の多い人生だった。
嫌なことが起こる度に、現実を巻き戻したくて身悶えする。だけど、そんなことはできなくて、変わらぬ日々が私を襲う。
後悔の波が引いたあとの足元には、いつも「もしあの時」という空虚な言葉だけが転がっている。それを拾い集めては、あり得たかもしれない別の人生を想像して時間を浪費してきた。どう足掻いても時間は不可逆だ。ゲームのように都合のいい地点からやり直すことは叶わないし、昨日の失敗は今日の私に確かな重みを持ってのしかかっている。
そんな閉塞感の中で、ふと考えてみたことがある。過去の出来事そのものをなかったことにはできないが、それに対する「意味付け」は、今この瞬間から変えられるのではないか、と。
失敗ばかりの過去を「マイナス」と捉えるから、真っ新なゼロに戻りたくなるのだ。そうではなく、これまでのつまずきや痛みのすべてを、これから歩き出すための地固めだったと考えてみる。傷跡は、次に同じ石で転ばないための目印として機能してくれるはずだ。
時計の針は戻せないが、明日のページはまだ誰にも書かれていない。これまでの不器用な日々をすべて背負い込んだこの場所を、新たなスタートラインとして引き直す。過去を消し去るのではなく、今の私から始まる「0からの」一歩を、再び不格好に踏み出してみるのだ。
『同情』
「同情」という言葉には、どこか危うさが見え隠れするように感じる。
その危うさの正体は、文字通り「同じ感情」と書くにもかかわらず、実際には相手と同じ感情には到底なり得ないという矛盾にあるのではないだろうか。
誰かが苦しんでいる姿を見て、私が「かわいそうに」と心を痛めたとする。しかしよく考えてみれば、「かわいそう」という感情は、いつだって他者に向けるものだ。自分自身に対して「かわいそう」という感情を向けることは少なく、渦中にいる本人はただ必死にその状況と向き合っているのが常だと思う。
だからこそ、相手自身が自分のことを「かわいそう」だと思っていないのは、ごく自然なことなのだろう。そこに生じているのは「同じ感情」ではなく、決定的な感情のズレなのかもしれない。
相手を思いやっているつもりでも、一方的な「かわいそう」という眼差しは、時に残酷な響きを持つことがある。それは、相手の在り方をこちらの勝手な感情で枠に嵌め、消費してしまう危険性を孕んでいるからだ。
真に誰かと思いを交わすということは、表面的な同情とは少し違うのだろう。相手の感情を自分と同じだと錯覚するのではなく、その人が「なぜ」その状況に至り、「なぜ」そのような思いを抱いているのかという背景に目を向けること。
安易に「気持ちはわかるよ」と同調するのではなく、相手の感情と自分の感情は違うという事実を引き受けた上で、それでも相手の「なぜ」に静かに寄り添おうとする姿勢を持つこと。それこそが、独りよがりではない、相手をひとりの人間として尊重する関わり方に繋がっていくのではないかと思う。
すぐに解決策を提示したり、憐れんだりするのではなく、ただそこにある理由と共に留まること。私自身も、安易な同情で相手を縛ることなく、その奥にあるものに寄り添える人でありたい。
『今日にさよなら』
ベッドに潜り込み、蛍光灯の明かりを消す。その瞬間に訪れる暗闇と静寂は、今日といういちにちが、過去のものへと変わる合図のようだ。
「さよなら」という言葉には、どこか永遠の別れのような響きがある。友人と別れるときは「またね」と言うし、職場を出るときは「お疲れ様」と言う。けれど、今日という日に対しては、やはり「さよなら」が一番しっくりくるのだ。なぜなら、全く同じ今日は二度と戻ってこないからだ。
瞼を閉じると、今日あった出来事が、まるでスライドショーのように断片的に浮かんでくる。うまくいったことの余韻よりも、言いそびれた言葉や、やるべきだった些細な後悔の方が、夜の静けさの中では輪郭をはっきりとさせる。それらがチクリと胸を刺すこともあるけれど、今の私にできるのは、それらを解決することではない。ただ認めて、手放すことだ。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。呼吸をするたびに、今日一日に纏った重たいコートを、一枚ずつ脱いでいくような感覚になる。楽しかったことも、辛かったことも、すべては今日の私を形作った要素であり、明日の私へと続く糧だ。
今日にさよならを告げることは、明日を新しい気持ちで迎えるための儀式なのかもしれない。完全にリセットすることはできなくても、一度ピリオドを打つことで、物語は次の章へと進むことができる。
「今日、ありがとう。そして、さよなら」
心の中でそう呟いて、私は眠りの淵へと身を委ねる。