『誰よりも』
誰より自分が凄い気がしていた。人より運動が出来たし、人より勉強が出来たし、遊びでやってたゲームでだって負けなかった。
でも、段々と綻んでいく。
最初は、ほんの些細な糸のほつれだった。
中学に上がって、隣の席の奴が自分より少し早くテストを解き終えたとき。高校の部活で、努力しても追いつけない背中を目の当たりにしたとき。あるいは、何気なくネットで見かけた同年代の作品が、自分には到底及ばない輝きを放っていたとき。
「誰よりも」という冠は、自分が狭い世界にいただけだと気づくたびに、ポロポロと剥がれ落ちていった。
井の中の蛙は、大海を知ってしまったのだ。
自分が特別ではなかったと認めるのは、痛みを伴う。鏡に映る自分が急に平凡で、つまらない人間に思えてくる。かつて抱いていた根拠のない自信は、どこへ消えてしまったのだろう。
けれど、不思議と絶望だけではない気もしている。
「誰よりも」優れている必要がなくなったとき、ようやく僕は、他人との勝ち負けではない、自分自身のものさしを探し始めることができたからだ。
一番じゃなくても、誰かに勝てなくても、今日食べたご飯が美味しいことや、夕焼けが綺麗だと思える感性。そういう、誰とも比較できない「自分だけの確かなこと」が、綻んだ隙間から少しずつ見え始めている。
そうして足元の確かな幸せを拾い集めるうちに、私は他人の背中を追うのをやめた。
違う性格、違う環境、違う生き方で成功を重ねる人の背中は、あまりに大きく、眩しい。けれど、その憧れだけで突き進むのは、自分が走るべきレールを見誤ることになる。
例えるなら、彼らは豪雪地帯を力強く進む、特別な装備を纏った列車だ。対して私は、街中を走るための標準装備の車両に過ぎない。
憧れだけで彼らと同じ雪原へ乗り出せば、車輪は凍りつき、雪に埋もれ、やがて玉砕してしまうだろう。それは勇気ではなく、ただの無知だ。
だから私は、自分のレールを走ることにした。
これは決して「諦め」という後ろ向きな言葉では片付けられない。
重要なのは、現実的な状況――自分の装備(スペック)――を冷静に見つめること。そして、やりたいこと、やりたくないこと、得意なことのバランスを丁寧に整えていくことだ。
「誰よりも」速くなくても、猛吹雪の中を走れなくてもいい。
自分に合った速度で、自分だけの景色の中を着実に進んでいく。それが、綻びを知った後に私が見つけた、新しい強さなのだと思う。
『バレンタイン』
バレンタインとは、何か。チョコという形で、感謝や想いを人に伝えるイベント、多くの人はそういうのだと思う。
けれど、正直に言えば、その商業的な喧騒に、どこか食傷気味になる自分もいる。街が赤やピンクに染まり、義務のように用意される義理チョコや、SNSに溢れる華やかな写真。それらを横目に、少し冷めた足取りで通り過ぎることも少なくない。
それでも、ふと足を止めて考える。
誰かが誰かのために時間を使い、何を贈ろうかと悩み、店先で商品を手に取るその「過程」自体は、決して悪いものではない、と。
味がどうとか、値段がどうとか、そんなことは二の次だ。重要なのは、誰かの思考の片隅に、別の誰かが居座る時間が発生しているという事実だ。その「誰かを想う時間」の総量が、この日、世界中で少しだけ増える。そう考えれば、この浮かれたイベントも、あながち捨てたものではないのかもしれない。
ただ、昔からそう思えていたわけではない。
以前の私は、この喧騒をもっと斜に構えて見ていたし、そこに潜む温かさに目を向ける余裕などなかったように思う。
いつからだろうか。
明確な時期は分からない。けれど、表層的な賑やかさの奥にある、人の心の機微のようなものを掬い上げられるようになった。
世の中には、歳を重ねてもそうならない人もいるし、それが悪いことだとも思わない。
しかし、この静かな「余裕」を自分の中に等身大で感じられたとき、ふと独りごちる。
こういうことを、「大人」になったと呼ぶのかもしれない、と。
『待ってて』
「待っててね」そう言って、かつて夕暮れ時まで毎日のように遊び尽くした遊び場に、別れを告げたあの日。
いや、本当は待っててなんて明確な別れもなく、いつの間にか離れて、その距離が、二度と埋まらないものになってしまった。
まるで約束を破ったかのような微かな罪悪感だけが、大人になった今の私に残っている。あんなに鮮明だった鉄錆の匂いも、夕暮れのチャイムが鳴る瞬間の焦燥感も、日々の忙しさに塗りつぶされていく。
「待ってて」なんて、本当は遊び場に向けた言葉じゃなかったのかもしれない。それは、あの場所で無邪気に笑っていた「かつての自分」を、そこに繋ぎ止めておきたかっただけの、私のわがままだったのだろう。
『伝えたい』
私には伝えたいことがあるのです。
世の中にはたくさんの事があるとは思いますが、それを誰かの心へ正確に手渡す方法は、あまりにも未完成なものばかりです。
口に出した瞬間、思っていたことの半分も伝わらずに空気に溶けてしまった経験が、誰にでもあるのではないでしょうか。大切なことほど、声にすると陳腐になり、あるいは喉の奥でつかえて、結局は沈黙の中に逃げ込んでしまう。私たちはそうやって、無数の「言えなかったこと」を抱えて生きています。
だからこそ私は、こうして「書く」ことを選びます。
文字ならば、震える声も、迷った時間も、すべてをインクの中に閉じ込めておける気がするからです。形のない感情に輪郭を与え、誤解を恐れずに言うならば、私の孤独とあなたの孤独を繋ぐための、ささやかな試みとして。
情報の濁流に流されないように、杭を打つように。私はここから、静かに言葉を紡ぎたいのです。
『この場所で』
生きている。僕はこの場所で生きている。それは変え難い真実のはずだ。それが嫌ということはないし、嫌なことがあるのは自分から出た錆であることくらいは、重々承知しているつもりだ。
それでも、ふと視線を上げれば、六畳間の窓枠にはいつもと同じように西日が差しているし、読みかけの文庫本は机の上で開かれたまま、僕の帰還を待っている。
「この場所」とは、単なる緯度経度で示される地点のことではない。僕が吸って吐いた息の蓄積であり、選び取ってきた、あるいは選ばざるを得なかった無数の選択肢が積み重なってできた、地層のようなものだ。
錆びついた部分があるのなら、それもまた一つの味わいとして、今の生活に馴染んでいる。美化するつもりはないけれど、この雑然とした部屋の空気は、案外、僕の肌には合っているのかもしれない。
ここから逃げ出したいと願う夜もある。もっと広い世界、もっと鮮やかな景色がどこかにあるはずだと、地図アプリを眺める日もある。けれど、結局のところ僕は、ここでお湯を沸かし、コーヒーを淹れ、今日という日を閉じるのだ。
その繰り返しが「生きる」ということなら、悪くない。そう思えるくらいには、僕はこの場所に根を下ろし始めている。