『今日にさよなら』
ベッドに潜り込み、蛍光灯の明かりを消す。その瞬間に訪れる暗闇と静寂は、今日といういちにちが、過去のものへと変わる合図のようだ。
「さよなら」という言葉には、どこか永遠の別れのような響きがある。友人と別れるときは「またね」と言うし、職場を出るときは「お疲れ様」と言う。けれど、今日という日に対しては、やはり「さよなら」が一番しっくりくるのだ。なぜなら、全く同じ今日は二度と戻ってこないからだ。
瞼を閉じると、今日あった出来事が、まるでスライドショーのように断片的に浮かんでくる。うまくいったことの余韻よりも、言いそびれた言葉や、やるべきだった些細な後悔の方が、夜の静けさの中では輪郭をはっきりとさせる。それらがチクリと胸を刺すこともあるけれど、今の私にできるのは、それらを解決することではない。ただ認めて、手放すことだ。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。呼吸をするたびに、今日一日に纏った重たいコートを、一枚ずつ脱いでいくような感覚になる。楽しかったことも、辛かったことも、すべては今日の私を形作った要素であり、明日の私へと続く糧だ。
今日にさよならを告げることは、明日を新しい気持ちで迎えるための儀式なのかもしれない。完全にリセットすることはできなくても、一度ピリオドを打つことで、物語は次の章へと進むことができる。
「今日、ありがとう。そして、さよなら」
心の中でそう呟いて、私は眠りの淵へと身を委ねる。
『誰よりも』
誰より自分が凄い気がしていた。人より運動が出来たし、人より勉強が出来たし、遊びでやってたゲームでだって負けなかった。
でも、段々と綻んでいく。
最初は、ほんの些細な糸のほつれだった。
中学に上がって、隣の席の奴が自分より少し早くテストを解き終えたとき。高校の部活で、努力しても追いつけない背中を目の当たりにしたとき。あるいは、何気なくネットで見かけた同年代の作品が、自分には到底及ばない輝きを放っていたとき。
「誰よりも」という冠は、自分が狭い世界にいただけだと気づくたびに、ポロポロと剥がれ落ちていった。
井の中の蛙は、大海を知ってしまったのだ。
自分が特別ではなかったと認めるのは、痛みを伴う。鏡に映る自分が急に平凡で、つまらない人間に思えてくる。かつて抱いていた根拠のない自信は、どこへ消えてしまったのだろう。
けれど、不思議と絶望だけではない気もしている。
「誰よりも」優れている必要がなくなったとき、ようやく僕は、他人との勝ち負けではない、自分自身のものさしを探し始めることができたからだ。
一番じゃなくても、誰かに勝てなくても、今日食べたご飯が美味しいことや、夕焼けが綺麗だと思える感性。そういう、誰とも比較できない「自分だけの確かなこと」が、綻んだ隙間から少しずつ見え始めている。
そうして足元の確かな幸せを拾い集めるうちに、私は他人の背中を追うのをやめた。
違う性格、違う環境、違う生き方で成功を重ねる人の背中は、あまりに大きく、眩しい。けれど、その憧れだけで突き進むのは、自分が走るべきレールを見誤ることになる。
例えるなら、彼らは豪雪地帯を力強く進む、特別な装備を纏った列車だ。対して私は、街中を走るための標準装備の車両に過ぎない。
憧れだけで彼らと同じ雪原へ乗り出せば、車輪は凍りつき、雪に埋もれ、やがて玉砕してしまうだろう。それは勇気ではなく、ただの無知だ。
だから私は、自分のレールを走ることにした。
これは決して「諦め」という後ろ向きな言葉では片付けられない。
重要なのは、現実的な状況――自分の装備(スペック)――を冷静に見つめること。そして、やりたいこと、やりたくないこと、得意なことのバランスを丁寧に整えていくことだ。
「誰よりも」速くなくても、猛吹雪の中を走れなくてもいい。
自分に合った速度で、自分だけの景色の中を着実に進んでいく。それが、綻びを知った後に私が見つけた、新しい強さなのだと思う。
『バレンタイン』
バレンタインとは、何か。チョコという形で、感謝や想いを人に伝えるイベント、多くの人はそういうのだと思う。
けれど、正直に言えば、その商業的な喧騒に、どこか食傷気味になる自分もいる。街が赤やピンクに染まり、義務のように用意される義理チョコや、SNSに溢れる華やかな写真。それらを横目に、少し冷めた足取りで通り過ぎることも少なくない。
それでも、ふと足を止めて考える。
誰かが誰かのために時間を使い、何を贈ろうかと悩み、店先で商品を手に取るその「過程」自体は、決して悪いものではない、と。
味がどうとか、値段がどうとか、そんなことは二の次だ。重要なのは、誰かの思考の片隅に、別の誰かが居座る時間が発生しているという事実だ。その「誰かを想う時間」の総量が、この日、世界中で少しだけ増える。そう考えれば、この浮かれたイベントも、あながち捨てたものではないのかもしれない。
ただ、昔からそう思えていたわけではない。
以前の私は、この喧騒をもっと斜に構えて見ていたし、そこに潜む温かさに目を向ける余裕などなかったように思う。
いつからだろうか。
明確な時期は分からない。けれど、表層的な賑やかさの奥にある、人の心の機微のようなものを掬い上げられるようになった。
世の中には、歳を重ねてもそうならない人もいるし、それが悪いことだとも思わない。
しかし、この静かな「余裕」を自分の中に等身大で感じられたとき、ふと独りごちる。
こういうことを、「大人」になったと呼ぶのかもしれない、と。
『待ってて』
「待っててね」そう言って、かつて夕暮れ時まで毎日のように遊び尽くした遊び場に、別れを告げたあの日。
いや、本当は待っててなんて明確な別れもなく、いつの間にか離れて、その距離が、二度と埋まらないものになってしまった。
まるで約束を破ったかのような微かな罪悪感だけが、大人になった今の私に残っている。あんなに鮮明だった鉄錆の匂いも、夕暮れのチャイムが鳴る瞬間の焦燥感も、日々の忙しさに塗りつぶされていく。
「待ってて」なんて、本当は遊び場に向けた言葉じゃなかったのかもしれない。それは、あの場所で無邪気に笑っていた「かつての自分」を、そこに繋ぎ止めておきたかっただけの、私のわがままだったのだろう。
『伝えたい』
私には伝えたいことがあるのです。
世の中にはたくさんの事があるとは思いますが、それを誰かの心へ正確に手渡す方法は、あまりにも未完成なものばかりです。
口に出した瞬間、思っていたことの半分も伝わらずに空気に溶けてしまった経験が、誰にでもあるのではないでしょうか。大切なことほど、声にすると陳腐になり、あるいは喉の奥でつかえて、結局は沈黙の中に逃げ込んでしまう。私たちはそうやって、無数の「言えなかったこと」を抱えて生きています。
だからこそ私は、こうして「書く」ことを選びます。
文字ならば、震える声も、迷った時間も、すべてをインクの中に閉じ込めておける気がするからです。形のない感情に輪郭を与え、誤解を恐れずに言うならば、私の孤独とあなたの孤独を繋ぐための、ささやかな試みとして。
情報の濁流に流されないように、杭を打つように。私はここから、静かに言葉を紡ぎたいのです。