「いらっしゃーい」
昨日も一昨日も、その前も来たこの病室。いつも変わらず君は笑顔で出迎えてくれる。日に日に増えてゆく腕の注射の針の痕が痛々しい。でもそんなことみじんも感じさせないかのように君は笑いかけてくるのだ。まるでこの部屋に差し込む木漏れ日のように。
「来週にはもう桜が咲いちゃうんだって。なんか年追うごとに早まってるよね」
「そうだね」
本当なら、今度一緒に見に行こうかと言ってあげたいけどそれは叶わない。君はこの病室から出ることはできない。この春だけじゃなく、今度の夏も、秋も。そんな残酷な事実が待ち構えているというのに相変わらず君はにこにこと笑みを絶やさずベッドの上に座っている。
どうしてそんなに笑えるんだろうか。君のその優しい雰囲気はいったいどこから溢れ出てくるのだろう。僕はといえば、なんで君なんだとか、他の、例えば犯罪でも犯したヤツに君のこの病を押し付けられたら、みたいなことを延々と考えている。1人になると常にそんな黒い感情ばかりを膨らませて。君の笑顔とは正反対に僕は泣いてばかりの日々を送っている。
でもそんなこと君には言えやしない。僕に気を使って笑ってくれているかもしれない君に、これ以上不安を与えるなんて許されないんだ。だから、ここに来る時だけはどんなに現実が辛くても僕も笑うことにした。心は泣いていても、無理矢理笑うことにした。
「もう春なんだねぇ」
しみじみと、穏やかな口調で君が言った。視線は窓の外を見つめている。病院のすぐ外に植わっている木の枝が見えて、小さな芽吹きが確認できた。太陽を受けて病室からはきらきらと光って見える。それを愛おしそうに君は見つめている。この上なく安らかな瞳だった。優しくて温かでなんでも受け入れてくれそうな瞳。その瞳が見れなくなるのはいつなんだろうか。刻一刻と君とのお別れは近づいている。色々考えてしまってからふと我に返ると、いつの間にか僕は握り拳を作っていた。ここでは穏やかな自分でいたいと決めたのに。でも、それでも君と別れるのは受け入れられない。どうしても、嫌なんだ。いっそ時間が今この瞬間で止まればいい。もう春が来なくたっていい。そんな馬鹿なことを考えてしまうくらい、君のことを愛しているんだ。
“今日は会えない”。
昼休みに、携帯を確認するとそれだけ送られてきていた。どういうことだよ。仕事がのびそうとか、急病になったとか、理由もなしに会えないだなんてあんまりだ。
普段よりもイラッとしてしまった理由はちゃんとある。彼女と会うのは、今年に入って初めてなのだ。年末年始も互いの仕事の目処がただずに会うことができなかった。せめてもの電話で新年の挨拶を交わし、今年はゆっくりどこか旅行でも行きたいね、だなんて話してからあっという間に2ヶ月あまりが経とうとしている。季節も1つ終えてしまった。淋しいけど、彼女は一生懸命自分の仕事を頑張っている。それを分かってるし、男のくせに安易に“会いたい”だなんて口にするのもどうかと思ったから、大人しく彼女のスケジュールが落ち着くのを待っていたのだ。
ようやく、“来週末空いてたら会える?”なんて嬉しすぎるメッセージをもらって。僕はすぐさま返事をした。ちょっとお高めのレストランの予約も入れておいた。別に会う日は彼女の誕生日でもなんでもないけれど、小さなブーケでも用意したら喜んでくれるんじゃないか。そんなことを考えながら今日という日を待ち侘びていたのに。
“会えない”の理由をせめて知りたくて、彼女の携帯に電話をかけた。でもどうせ、出ないのは分かっている。僕よりも遥かにハードワークをしているのだから。だが予想とは異なり、コール音は3回で途切れた。
『はい』
電話の向こうから彼女の声が聞こえる。まさか出るとは思ってなかったから何を話すべきかもたついてしまった。出るはずかない、と思っていながら電話をかけるのは可笑しな話だが、本当に彼女の声が聞けるとは思ってなかったのだ。
「久しぶり」
かろうじて出た言葉がこれだった。肉声を聞くのは1か月以上ぶりだから間違ってはいない。
「今日、会えないってどういうこと」
『……ごめんなさい』
「僕は理由が知りたいんだよ」
1度だって、君の仕事の忙しさを咎めたことはなかった。あぁ頑張ってるんだなって、誇らしくも思ったりした。でも今回だけは。納得はせずとも君の口から理由をちゃんと聞きたい。そう思ったから、出るか分からないけど電話をしたのに。
「……泣いてるの?」
聞こえる声が僅かに嗚咽を孕んでいた。訳が分からない。会えない理由も泣いてる理由も、何も分からない。でももう、さっきまでの苛立たしい気持ちはさっぱり無くなっていた。心配でもどかしい、これまた後味悪い感情が頭の中に広がる。
『今日、本当にごめんなさい』
「いいんだよ、仕方がない。それよりどうしたの。なんで泣いてるの」
『仕事で、ちょっと』
うまくいかなかったの。消え入りそうな声で彼女が言った。泣くほどまでに向き合っているからこそ、うまくいかなかった時にどうしようもなくなってしまうんだろう。そんな彼女はこれまでに幾度となく見てきた。僕なりに、ずっと隣で見守ってきたつもりだ。大して力にならなかったかもだけど、誰よりも君のことを心配していた。今だってそうだ。
「今日、無理にでも会えるとしたら何時なら会える?」
『え?……えっと……だめ、日付変わるのは確実だと思う』
「いいよ、それでも。終わったら連絡して。会いに行くから。それまでずっと待ってる」
『……ありがとう』
ちょっとやそっとで諦めるもんか。君に会わない限り、僕の今日は終わらない。だからいくらでも待つよ。そう言うと、彼女がもう一度震える声でありがとうと言ってきた。こんな時に思いきり抱き締めてあげられたらいいのに。
それでもいくらかは彼女のメンタルを助けてやれたようで。じゃあ後でね、と最後に話した彼女の声は、ようやくいつもの落ち着きはらったものだった。
何時でも、待つから。だから僕と会う時はどうか笑顔でいてほしい。
じゃあ早速。
出身は?好きな色は?得意な教科は?
休みの日って何やってんの?犬派?猫派?
何って。隣の席になったんだからお互いのことを知ったほうがいいでしょ?きみのこと知る代わりにあとであたしのことも教えてあげる。質問も特別に受け付けちゃうよ。
……え。そう、なの。そんな興味ないか。そっか。
じゃあ……ひとまず、よろしく。
あ、教科書とかもし忘れたら言って。貸したげるから。あたし視力良いから黒板の字も良く見えるからもしなんかあったら頼ってくれていーよ。
え、うん、そうだけど。
なんでよ、別にそんなんじゃないし。
いいじゃん別に、そんなのあたしの勝手でしょ。
へっ。
……え、うん。いい、けど?
まぁ、別に減るもんじゃないし。
じゃあID送るね。ここから読み取って。
あ、きたきた。犬のアイコン。
……ってことは犬派なんだ?
へー、そうなんだ。あたしの家にもいるよ、ほら!
かわいいでしょ?
まあねー。自慢かな、そこは。
あ、授業始まる。
はーっ、数学かあ。あたし苦手。
え?得意なの?変わってるね〜。
うそうそ、ははは、けっこう面白いね、きみ。
……あのさ。授業終わったら、
またあとで、喋ったりできたら、いいかな、なんて。
別に、きみがイヤならいいんだけど。
え、ほんと……?
うん……!
そうする。
はあ。
やっぱ好きだなあ……
ううん、なんでもないこっちの話。
どうもありがと。
人生のあり方だとか、理想的な暮らし方とか自分の魅力の磨き方だとか。本屋にはいろんなタイトルの本が並べられていた。いわゆる“自己啓発”のコーナー。これらを読んで早速実践してバラ色の人生を手に入れられた人ってどれくらいいるんだろう。
そもそも何をもって“理想”とやらは決まるんだろうか。それぞれ生まれも育ちも違うのに、この本の中で一括りにされた理想とやらはさぞかし薄っぺらい内容なんだろうな、と思う。
教科書にも手引書にも辞典にも新書にも僕の人生についてタメになることは載っていない。著者にとっての理想が、僕にとってはそうじゃないことだって大いにある。だからあんまり、そういう類いの書籍を読む気になれないんだ。かっこよく言ってしまえば、僕の人生は僕が決める。つまりは、そゆこと。
理想だなんだって高望みするのもあんまり好きじゃないんだよね。目標を持つことは素晴らしいと思う。けど、理想ってのは所詮理想でしょ?億万長者になることも大豪邸を建てることも総理大臣になることも僕の人生の中にはちっとも魅力を感じない。そんなものなんかより身の丈にあった暮らしをいつまでもしていたいよね。それでいて、些細なことに幸せを感じられる自分でいたい。
たとえば……って聞かれると、うーん、すぐ浮かぶのは……お風呂に肩まで浸かれることとか?笑い事じゃないからね、水を自由に使えない地域だってうんとあるんだから。そういうさ、小さなことに感謝しながら歳をとっていけたら幸せがずっと続くと思うんだよね。時には高望みとか神頼みみたいなものに縋ることも、ゼロじゃないけど。基本的には、毎日毎日同じ日々だと思いがちな今日1日を大切に生きてゆくこと。
あ。もう1個、たとえばな些細な幸せが思いついた。君が今日も僕に会いに来てくれたこと。……そんなこと、だとか思ってる?だって、確実に来るとは限らなかっただろう?君と過ごせるこの平穏な日常に感謝を。願わくば明日も会いに来てくれますように。
願わくば。
この先世界が沢山の愛に包まれ、いつまでも平和で安息な日々が続きますように。誰もが笑って過ごせるような世界がいつまでも存在意義しますように。
なんてさ。
馬鹿みたいだ。
人間だから、こんな毎日のように諍いが生まれる。喋れて笑えて怒れて泣ける唯一の生き物だから。そんな、複雑なことが出来ちゃうから。存在意義とか独占支配とかくだらない欲望を生み出したのも僕らだ。この世界を勝手に荒らしておいて何が世界平和なんだろうか。呆れてものも言えやしない。
かく言う僕だってその人間の仲間なのだけど。
人間が戦争なんてものを企てる限り、火を扱うのをやめない限り、作った法律を破る馬鹿が存在する限り、この世界にいつまでも愛と平和が在り続けるだなんて無理な話なんだろうな。
そして、僕ひとりが変わったって、意味ないんだろう。僕がどんなに貢献したとして、この世界の汚さは1ミリも変わったりはしないんだ。
そんな、希望もへったくれもない未来。もう少し夢の持てる世界にしてほしかった。否、そうしてしまったのも人間なのだ。
救いようのない話だな。それでも腹は減るんだな。それってつまり今、僕は平和な中で生きてるんだろうな。