僕がまだ学校にあがる前の頃の話。当時は喘息をこじらせていてあんまり外に遊びに行くことができなかった。家で遊ぶのは嫌いじゃなかったけど、本当は、近所に住んでる子達に混じって鬼ごっことかかくれんぼをやりたかったんだ。それを母親に言ったらひどく怒られてさ。でも、その時の僕も幼いながらに精神状態がやや不安定だったらしい。母の静止を無視して家を飛び出した。行く先なんて考えずなりふり構わずといった感じで街を走り抜けた。案の定、帰り道は分からなくなるし息が上がって苦しくなる。独りで泣いても街の人は誰も手を差し伸べてくれなかった。たったひとり以外は。
馴染のない住宅街の隅っこで蹲ってたら女の子がどうしたのと話しかけてきたんだ。歳は僕くらいだとなんとなく思った。涙でぐしゃぐしゃの僕にその子はポケットからマーブルチョコを取り出して分けてくれた。「ピンク色が美味しいんだよ」って言ってたけど、味はすべてどの色も同じということを当時は知りもしなかったからピンク色がとても美味しいと感じたんだ。
女の子は僕の手を引いて自分の親に事情を話してくれた。そこからは大人である彼女の母親がどこかへ連絡をしてくれて、僕の母が僕を迎えに来てくれたのは1時間以内だった。怒られたけど、それ以上に心配されて抱きしめられた。今でもそれはいい思い出として残ってる。
やがて数年が経って僕の喘息がおさまってきた頃、クラスに転校生がやってきたんだ。彼女の出身は僕と同じ地区だった。ある日、たまたま昇降口で居合わせた時、その子が鞄からマーブルチョコを取り出したのを見つけた。なんだか懐かしくて僕はその手元をじっと見つめてしまった。そうしたら彼女は「食べる?」と言ってきた。笑い方が、なんだか見たことある気がする。そんなことをぼんやり思っていたら、
「ピンク色が美味しいんだよ」
そう言ったんだ。確信したよ。この子だって。あの日僕を助けてくれた女の子に間違いないって。奇跡とも思った。もう過ぎ去っただけのあの日が、一気に蘇ってきたんだよ。
彼女の家庭は転勤族だった。せっかく知り合えたのに。せっかく話ができるほどに仲良くなったのに。彼女はまた、転校しなきゃならなくなってしまった。僕はまだあの日のお礼を言えていない。だからちゃんと伝えなければいけない。君が僕の前から再び消えてしまう前に。そう決心して、君のことをメールで呼び出した。約束の時間までまだ1時間以上あるというのに僕は指定した公園のベンチにいる。ポケットからマーブルチョコを取り出した。筒型の容れ物を振って出てきた色は、ピンク色。一番美味しい色だ。縁起の良い色が一発で出て、この後、君にお礼以外にも伝えようとしていることを後押しされた気持ちになった。
“ありがとう”と“君が好き”。
それだけを、伝えたいんだ。
気付いた時には勝手に手が出ていた。
乾いた音がした。でも、彼は顔色1つ変えずにあたしを見つめ返してくる。あたしに引っぱたかれた頬にゆっくりと手を添え、妖しく嗤っている。なんで嗤ってられるのかちっとも意味が分からない。バカらし、と思う反面その笑顔が不気味だった。
「聞こえなかったか?いくら欲しいんだよ」
もう一度その言葉を口にする。途端におさまりかけていた怒りが再沸騰してきた。もう我慢できない。これ以上ここにいるとそのうちあたしは彼を殺してしまうかもしれない。罵声を浴びせたい気持ちをおさえて、あたしはここから出ていくことにした。でも。
「逃げるのか?」
あたしがこんなに苛ついてるのが分からないのか。いや、わざとそんなことを言ってあたしの反応を見て楽しんでるんだ。それを思ったら尚更苛立たしさが増した。でも、コイツなんかに感情的になったら駄目だ。話をしても分からない相手なんだから、これ以上相手をするだけ無駄なのだ。言い返せないのが少し悔しいけれど、あたしは無言のまま扉の取手を握る。
「冗談じゃねぇよ」
背後から声がしたのと、あたしの手をドアノブごと握られたのは同時だった。彼がすぐ後ろにいる。さっきまでの、人を小馬鹿にしたような空気は無くなり、今はどこかピリピリしたものに変わっていた。
「ここまで執着しないのなら、金を出してお前を買うなんて馬鹿げたことは考えねぇよ」
「何、言って」
「お前だからこの話を持ち掛けたんだ。他の誰でもない、お前だから俺の全ての資産を対価にしてでも欲しいんだよ」
「……そんなの、」
勝手だ。この人は勝手で我儘でものすごく横柄な人間だ。物事が全てお金で解決できると思ってる。金を払えば何でも手に入れられるのだと、心の底から思っているのだ。当然そこにあたしの気持ちなんてものは存在しない。あたしのことを金で手に入れようとする人間なんかに、一生あたしの気持ちなんて分かるわけない。
「どいてよ」
「お前は俺のものだろう?」
「ならないよ」
「いくら欲しいんだ?」
「要らないよ……!」
どうせ、あたしの気持ちなんて分かってくれない。本当はあたしがあなたのこと、優しくて素敵な人だって思っていたことも。一瞬好きになりそうだったことも。
お金なんかじゃなくて、ただ一言、“俺のもとへ来ないか”って、ただそれだけ言ってほしかったのに。
やっぱりあたしには無理だな。お金よりも大事なものを知らないあなたは、あたしには無理なんだと悟った。
失くして初めて気づいた、とか
まるでドラマとか本の中でしか出てこないものだと思ってたけど、
今まさに味わってみて、ほんとに心がぽっかりしてるよ
まさに、ぬけ殻
この後無性に後悔するんだろうな
もっと話せば良かった
もっと笑えば良かった
もっと泣けば良かった
もっと大切にしてあげれば良かった
もっと、もっと――
嘆いたところでもう遅いの
外はいつの間にか雨が上がってた
月が綺麗に顔を出している
月が綺麗だねって、最初にあなたが言ってくれた日に戻りたい
そんなの叶うわけないのに願ってしまう
それにしても憎たらしいくらい綺麗な月夜だ
あなたも今、見てたらいいな
それで私のこと思い出してくれたらいいのにな
あの子がそっとこの部屋から出ていったのに気づいたのは僕だけだった。みんなは盛大に騒いで、笑って、とにかくやかましいくらいに部屋中に声が飛び交っていた。だからあの子が席を外す瞬間を見たのは僕だけ。目に涙をためて、堪えきれずに逃げるように出て行ったのを見たのはこの僕だけだ。
今日僕らは卒業した。日中に卒業式があり、夜になってまた集まれるやつは集まろうという話になった。いわゆる2次会みたいな感じのパーティ。学校のそばのカラオケ店に集合して、1番広い“パーティルーム”を貸切にして僕ら卒業生は好き勝手騒いでいた。昼間はみんなあんなに泣きまくっていたのに、今となっては誰もそんな素振りは見せない。アルコールが入ってるわけでもないのに(確証は無い)、馬鹿騒ぎは何時間も続いた。
でも、誰かが入れた“3月9日”のイントロが流れた時、あの子がそっと部屋から出ていくのを見つけた。目にはきらりと光るものがあった。すぐに追い掛けるのはなんだか気まずいから、仕方なく誰かのヘタクソなレミオロメンを聞いてから隣りに座っていた友達には「トイレ」と言って部屋を出た。廊下を曲がってドリンクバーコーナーを過ぎて突き当りの広間みたいなところに彼女はいた。こっちに背を向けて座っているから今どんな顔しているのか分からない。けど間違いなく泣いている。
「歌わないの?」
僕の声にびっくりした彼女は勢いよく振り向いた。やっぱり真っ赤な目をしていた。
「卒業が、かなしいの?」
「……うん」
泣き顔を隠すように彼女は横を向いた。嫌がるだろうとは思ったけど僕は構わず隣に座る。微妙な空気が流れた。そっぽを向く彼女の背中から尖ったオーラがびしびし伝わってくる。もう放っといてよ。そう言いたいんだろう。分かるけど、僕はその通りにはしないんだ。ずっと気になってた子が泣いてるのに放置してカラオケするほど僕は無神経じゃない。とは言っても、どうやって慰めたら良いんだろうか。彼女にとって気の利いた言葉がどれなのかは分からなかった。だからありきたりなことしか口から出てこなかった。
「またすぐ会えるよ」
「どうだろ」
「どういう意味?」
「私だけ、進路がちょっと違うから。来週には日本を発つの」
「え」
絶句した。数秒前の、僕のまたすぐ会えるよ発言はいともたやすく消されてしまった。そうか。だから彼女は誰よりも卒業することを嘆いていたんだな。そんなことも今さらになって知る。僕は馬鹿だな。好きならばもっと、彼女のことを知るべきだった。本当に馬鹿だな。
「でも、」
と彼女が口を開いて、そして僕のほうを見た。頬に涙の跡が残っているけど、顔は笑っていた。
「そうやって言ってもらえて元気出たよ。ありがとう」
無理して笑ってる。それでも、彼女が僕が追い掛けてきたことを受け入れてくれたのが分かって嬉しかった。“また会える”だなんて、本当は容易く言われたくなかったのかもしれないけど。彼女は嫌味を言わずに僕にありがとうと言ってくれた。そのことが、僕の心を突き動かした。
「決めた」
「え?」
「夏に海外旅行する。その為にこれからバイト頑張る」
「え?あ、そうなんだ」
「行き先は君が行く国にする」
真ん丸に見開かれた両目に、やたら真剣顔の僕が映っている。僕だって出来ることはやるさ。すぐ会えるだなんて言ったからには実行させてやる。だから待ってて。そして、次に会う時には僕の気持ちを聞いてほしい。今はまだ言えないけど。卒業しても、何万キロ離れてても、見えないものが繋がっているから。
彼女が頷きふわりと笑った。瞳の中の僕も同じように笑っていた。
おかえりー。
コート脱いでおいで。ご飯食べよ。
え?そうだよ?たまには僕だってお家のことやりますよ。……って言っても少し作っただけで、料理の半分はウーバーさんに頼りました。
いいのいいの。君の仕事を減らすことが目的だから。たまにはゆっくり話そうよ。ご飯食べてさ、お風呂入ったら一緒に映画見ない?ほら、こないだ見たいねって話てたやつ。たまには映画鑑賞するのもいいかなーって。ツマミとワインも買っといたよ。君が好きな銘柄。なかなか見つからなくてふた駅隣の店まで行っちゃったよ。ま、たまにはこんなのもいいかなって。
なんだか、“たまには”なことが意外とあるもんだね。いつもの日常が当たり前のように思えてしまってるのかもしれない。幸せに慣れすぎるってあんまり良くないと思うんだよね、僕は。有り難みをついつい忘れかけてしまうから。でも、だからって幸せが減るのは嫌だよ。むしろ君との時間は今以上に増やしたい。君の笑顔は今はもう見慣れてしまっているけど、君が笑うたびに幸せ感じてるのは今も同じだよ。いつもありがとう。たまには、感謝の気持ちを言葉にして伝えないとね。
え?それはたまにじゃなくて毎日でいい?……それはどうしようかなあ。だって、毎日ありがとうと愛してるを言うのはいくら僕でも恥ずかしいよ。
愛の言葉は、“たまには”でいいじゃない?そのほうが新鮮さを保てるよ?