かかっている白い布をとると君の穏やかな顔があらわれた。まるで眠っているようだ。いっそそうだったらいいのに。
普段から大してメイクに興味なんかない君が、今日は薄化粧をして固く目を閉じている。瞳の色は、何色だったか。昔、君の目は綺麗だねと褒めたことがある。そのことは覚えているのに、肝心な瞳の色を思い出せない。見たくても、もう見ることは叶わない。
「綺麗だよ」
いつもより白い今の君も綺麗だ。その綺麗な姿のままで旅立ってゆくんだね。これから君はどんな所へ行くんだろうか。星が見え、花が咲いて鳥も歌うような場所ならいいね。何にしても、君が穏やかに過ごせる場所でありますよう。そしたら、そこで待ってて。僕もいずれそっちへ行くから。だからいずれまた会えるから手向けの言葉は言わないでおこう。今は感謝と愛と敬意を込めて。安らかに眠れ。
「残念ですが貴方は死にました」
「へっ」
いきなり真っ白な世界が広がったかと思うと、目の前に小さな女の子が現れて僕に淡々と言った。
「死因は失血死。信号無視をしたダンプカーにはねられて即死でした」
「え、な、何を」
「よって、これから冥界へ向かう手続きに入ります。まず、お名前と誕生日と血液型を」
「待ってくれよ。死んだってなんだよ。ちっとも意味わかんないよ」
少女は僕を見て顔を曇らせながら溜息を吐いた。そんな憐れんだ目で僕を見ないでくれよ。いきなり死んだとか言われて、こっちはそれどころじゃないんだよ。ちゃんと分かるように説明してくれ。
「ていうか、ここ何処なんだよ」
「三途の川を渡りきったところです」
「まだそんなこと、言って……」
「無理もありません。貴方は自分が車に轢かれたことを自覚する前に息絶えたんですから」
「だから!なんだよそれ!僕は死んでなんかいない!来週には結婚式が控えているんだ!死んでなんかいられないんだよ!」
自分よりふた周り近く離れてそうな子に向かって怒鳴りつける。本当ならこんなことしない。けどこれは夢なんだ。たちの悪すぎる悪夢なんだ。だったらいくらでも喚いて早く目を覚ますべきだ。
「嘘なんだろう?早く覚めてくれよ。帰らなきゃ、彼女が僕を待ってるんだよ」
「じゃあ、見てみますか?」
少女が手を掲げると、真っ白な空間の中にスクリーンのようなものが現れた。そこに見えるのは紛れもなく僕の彼女だった。黒い服を着て、何かにしがみついて泣いている。それも尋常じゃない泣き方だった。
「あの中に貴方が入っています」
彼女がしがみついているのは棺桶だった。目を疑う他なかった。そんな、まさか。本当に僕は死んだのか。ならば、今見せられているこれは僕の葬式だというのか。
「うそだ」
「残念ですが」
淡々とした少女の言葉が響き渡る。僕は死んだ。それが真実だと、認めざるをえない声音だった。
「貴方はあまりにも不慮の事故で可哀想な最期をとげたので、1つだけ願いを叶えることができます」
「……死んだんだから、叶えたいことなんて何も無いよ。生き返らせてくれなんて、無理だろ?」
「そうですね。事実は変えられません」
「じゃあ何も要らない」
がっくりと項垂れて、僕はその場に倒れ込んだ。もう、どうだっていいや。どうにでもなってしまえ。何もかも信じられない。もう何も見たくないし聞きたくない。どうせその内できなくなる。
「良いんですか?例えば、あの女性」
「だって、どうすることもできないじゃないか」
「貴方も可哀想ですが、残された彼女も凄く辛い気持ちだと思います」
「そりゃそうだよ。僕ら、本当は一緒に暮らすはずだったんだから」
彼女はいつまでも泣き続けている。酷い嗚咽で、こんなに取り乱した様子を初めて見た。寂しがり屋で優しい僕の愛する人が、僕の棺桶を抱き締めて泣き叫んでいる。
「……ごめんな」
僕は悪くないのに謝らずにはいられなかった。僕のせいで、彼女はこれからひとりぼっちになる。孤独にさせてしまう事実に、何の言葉も浮かばなかった。でも伝えたいことは山ほどある。感謝とか懺悔とか願望とか好きの気持ちとか、こんなにも伝えたいことが沢山あるのに、どれ1つ上手く言葉に表せられなくて、辛くて悔しくて、泣いた。
「その総てを伝えましょう」
少女はぽつりとそう言って、スクリーンの中の僕の彼女に向かって手のひらを向けた。まばゆい光の線が彼女のほうへ伸びてゆく。すると絶えず泣いていた彼女が不意に顔をあげ僕のほうを見た。スクリーン越しに彼女と目が合った。真っ赤に泣き腫らした彼女の瞳が僕をじっと見つめている。
「あぁ――」
最期の最期まで、うまく言葉がでない。ごめんとかありがとうとかさようならとか愛してるとか。伝えたいことは沢山あるのに声にならない。でも少女が届けてくれたようだから、無事に数え切れない僕の思い総てが伝わってくれてればいいな。今はそれしか考えられない。
願わくば、もっと一緒にいたかった――
それを思った瞬間に僕は光に包まれた。お迎えか。
少女が差し伸べてきたその小さな手を取り、光の中へと歩きだした。
「じゃあ行くね。元気で」
最後に交わした挨拶の時には、もう貴方の顔を見ることができなかった。辛うじて、私も同じように元気でねと告げたけど、その声が貴方に届いていたかどうかまでは分からない。それくらいか細くて頼りなかったのは今でもよく覚えている。
あれから季節は巡ってもうすぐ春になる。お別れを言った時には葉の落ちた寂しい並木道だったこの道が、もうあと数日で綺麗な花を咲かせようとしているよ。この場所で味わったのは寂しさだけじゃない。貴方を送り出そうとした決意とか信じる心とか、決してつらい気持ちばかりではない。春になればこの道が綺麗に彩られるように、その頃には私の心もきっと落ち着くでしょう。貴方を思うあまりに溢れて止まらない寂しさに苦しめ続けられる日々でなくなると、そう信じてる。
どれくらいそうしていただろう。窓の外が夕焼け色になっているからもうすぐ夜なんだと思う。
膝をかかえ部屋の隅でうずくまってた。理由は、言えない。きっと、僕のこの悩みは他の人たちにとっては“そんなこと”レベルで片づけられちゃうんだ。それを思うと簡単に誰かに打ち明ける気にならなかった。
誰もがみんな、悩みとか不安を抱えている。それ以上にもっとどす黒い感情をもってる人だっている。汚くて醜い姿だから普段は表に見せずに隠しているけど、どうしようもなくおさえられない時がある。それが、今だった。
1日何もせずじっとしていた。それでもなんの解決もしなかった。ただ無駄にしただけだった。
この苦しみから解放されたい。どうすれば、僕は前に進めるのだろうか。思い悩んで足掻いていれば、いつかは神様が救ってくれるのだろうか。今が1番気持ちのどん底だから何の希望も持てないや。だからせめて、生きてるだけで自分は素晴らしいと思わなくては。
明日になったら笑えているか、今日の夜が無事に眠りにつけるかも分からないけど。そろそろ涙を拭いて、立ち上がってみようか。きっと僕のように絶望してる人が今この瞬間にだってごまんといる。僕はその人たちに言ってあげたい。
何もしなくてもいい。
何を思ってもいい。
でも生きてることだけは、どうか否定しないで。
「用途は、お祝いか何かですか?」
「あ、はい」
「どんな感じのにいたしましょう?」
「どんなのって……」
店員さんに言われて俺は分かりやすくどもる。どんなのって、どんなだ。うまく伝えられやしない。花なんて詳しいわけがない。固まる俺を見て、店員さんはにこりと笑った。
「じゃあ、贈る相手はどんな方ですか?」
「えと、母親です」
「お母様の好きな色は?」
「多分……黄色とかオレンジとか、そーゆうかんじの」
「ビタミンカラーですね。きっと元気で笑顔が似合うお母様なのですね」
「あ、まあ……そんなとこです」
俺の薄い反応にいちいち相槌を打って、ガラスケースの中から今言った色の花たちを取り出す。色んな種類、色んな色、色んな形の黄色と白とオレンジの花たちが合わさって、彼女の手によってあっという間に花束になった。
「こんな感じで、いかがでしょうか?」
「……サイコーっす」
うまく言えないけど、これを母さんが貰ったら絶対に喜んでくれると思った。花束を抱えてその人が笑う。笑顔が眩しい。なんか、今、すっごくうろたえてるんですけど俺。なんでかな、店員さんのこと直視できない。
「喜んでくれると良いですね」
会計をして、どうぞ、と俺に花束を差し出してくれる店員さんにお礼を言って店を出た。用意はしたものの、なんて言って渡そうか。こういうの本当に慣れてないんだよな。素直におめでとうで良いんだろうけど。息子が誕生日に花束くれるなんて雪でも降るかしら、とか言いそうだな。
「……ま、いっか」
綺麗な黄色いガーベラが腕の中で揺れた。花束の中で、俺が唯一知ってる花がそれだった。あとは何ていうのか分からない。母さんなら当然知ってるだろうから聞いてみるか。
花を買うのもなかなか気持ちがいいことを知った。今度また、誰かの誕生日でも何でもない日にあそこの花屋行ってみようかな。