あなたに届けたいものが、確かにあったはずなのに。どうしてだか、思い出すことができない。大切なものだった。綺麗な箱に入れて、時折愛でたくなるような。
砂に消えた思い出は、もう形を作らない。
灰に削れた記憶は、そのうちに、その事実すら忘れてしまった。
剥がれ落ちた自己の証明に気付けぬまま、届け物だけが埃を被って埋もれていく。
I LOVE YOUを「月が綺麗ですね」と訳した文豪がいたという話があるんだってね。
ただの世間話、沈黙を殺すための話題だった。今日はとても見事な満月だったから。だというのに、相手から返ってきた答えは、ああ、あれ眉唾なんだよ、という、なんとも味気ないものだった。
「月光値千金のが、今の君には似合いだと思うけど」
「なにそれ」
「ジャズのスタンダード・ナンバーだよ」
それじゃあ、また。
そういって別れたあと、その曲を調べて、あれは慰めだったのか、と、遅ればせながら気が付いた。
街へ向かうための唯一の吊り橋には、自死した妙齢の女の霊が出るという噂が立っている。橋から外に落とされそうになっただの、声をかけると呪われるだの。
そんなはずはない。橋から落とされたのは、若い男なのだから。
優しさなんだ、と思っていたけれど、それは違うと見せつけられて、あっさりと形を変えてしまった。
彼自身からすれば、間違いなく優しさだったのだろう。それに甘んじたのは自分だ。泥濘の安寧ばかりを求めて、気づけなかったのは自分だ。
何もかもがもう遅い。あの優しさが変わっていなくても、受け手の感情が変わってしまったのだから、同じように享受出来るわけがなかった。
優しさと呼ばれる真綿で感情を締めつけるくらいなら、いっそ一思いに壊してくれれば良かったのに。
ミッドナイトブルーが、端から鮮やかな赤い色に変わっていっている。焼けた地平線から太陽が顔を出す様は、まるで火の鳥のよう。炎から生まれ、炎に死ぬ様は、きっと生命の宿命なのだろう。
これからきっと、雨が降る。生命の炎は、それすらも糧に高々と燃え上がって、地平線を焦がすのだ。