岐路
もし、人生の岐路をすべて可視化出来たら、果てしなく複雑なレースのように広がっていくように思う。
人生の岐路は、日々何度も現れる。
朝ごはんに買い置きのパンがきれてて、おにぎりたべちゃったり、家を出る時間を5分早く出来て、一便早いバスに乗ったり。それだけで、普段乗るはずだった電車の遅延に巻き込まれなくてすんだり。
状況に流されてせざるをえなかった消極的選択も、選択は選択だ。
選んだ覚えのない些細な選択が、生死を分かつ重大な岐路となることもある。
素敵な人との出会いで、うっとりするような図案が生まれたかと思えば、カミソリのような不運に突然断ち切られたり。
どこでどんな色の糸と絡み合うかも予測不能。
どんなレースが出来上がるのかな?
人生の最期にああ、愛おしいと思える作品になっていたら、万々歳!
世界のおわりに君と
世界のおわりに君とともにいたい。
ペット禁止の賃貸だって構うもんか。
猫用品買い込んで、道ばたで目を合わせることしかできなかった君をお招きする。
今まで、よく頑張って生き抜いてきたね。
すごいよ。
ごめんね。人間のせいで世界が終わっちゃうんだって。
最後くらい、雨に濡れることなく、美味しいもの食べて、快適なベットで休むといいよ。
ちょっと暇かなと思ったら、少しだけかまってくれる?
少しだけナデナデしていい?
今まで助けてあげられなくてごめんね。
世界のおわりに君といる幸せを願うなんて、自分勝手で本当に、ごめんね。
最悪
「ほんと、サイアク〜!」
マンガで、ドラマで、ちまたのなにげない会話で、よく目にしたり、耳にしたり。
なにかと出会うことが多くなった「サイアク」という言葉。
でも、何について言ってるのかとよくよく観察してみると、そこまで大したことじゃないように思える事を形容している事が多い。
もちろん、本当に最悪な事件、事故は起こっている。
悲しいことに。
ただ、ちまたで「サイアク」と表現された出来事の体感70%くらいは生死に関わるものじゃない世界に、私は生きることができている。
それだけで、存外幸せなのかもしれない。
1945年を生きのびた祖父や祖母の世代と比べたら。
だから、
わりあい軽めの意味で使われた「サイアク〜」が、跋扈していても、まぁなんとなくいいのかなと思う。
短く吐き出すことで、明日を生きていけるなら。
誰にもいえない秘密
言葉にしてしまって楽になれるなら、きっとそれは誰にも言えない秘密ではないのではないか。
言語化できない経験が、世の中には溢れている。
誰にも言えず秘密にしなければならないことは、時を経ても言語化に苦痛が伴う。そして、言語化しても苦々しい思いは、容易に消滅しない。
そういう言葉にできなかった想いをどこまで受け止められるか。秘密を打ち明けられる側にも問われるような気がしている。
だから、私の誰にも言えない秘密は、海洋散骨されるその日まで細胞の中だけにとどめておきたい。
はたから見れば、「なんじゃそりゃ、そんな大した事でもないじゃないか!」と、爆笑されることだとわかっていても。
最近、狭小住宅の動画に胸を躍らせる事が多くなった。
リノベしたばかりで、機能的で、きれいな狭い部屋。そんな部屋で生活する自分を夢想する。夢想した世界で生きている自分は、現実の私より整った空間で、心豊かに過ごしていた。
整頓しきれない物を抱えてしまった現実の私は、簡単にスッキリとした生活空間を築くパワーを失っている。
沢山の物の中でどんよりしている私より、整った狭い部屋で生きている自分のほうが数倍活き活きしていて。
よし、決めた。
溜めてきたものを一つづつ手放していこう。そして、理想の狭い部屋で暮らせる自分になろう。
そう決めて、ゴミ出しカレンダーに捨てていくものを書き込んだ。