はなればなれになった。
それが誰とのことなのか、私は知らない。
あの日、遊んでいた幼馴染のことか
それとも、小学生の時に出来た友だちのことか
中学生の時のそれか、高校の時のクラスメイトか、
部活仲間か、
はたまた、あの頃まで抱いていた理想の親の話しか、先生の話か
私は知らない
だけど、知らないながら、これだけ思い当たる事柄がこれだけあるのだ。
実感はしているのだろう。
あぁ、本当に面倒だ。
一筋の光を見た。
あぁ、そうだ。見た、見たのだ。見たはずなのだ。この目で見て、縋ろうと、得ようとして、手を伸ばした。あの時、確かに伸ばしたのだ。そして、その光は徐々に自分の手に落とされ、膨張し、一気に私を包んだ。私は眩しさで目を瞑ってしまった。
あぁ、そうか。瞑ってしまったのか。私は目を…。自分の造られた体に付いた目などあの光の輝きで潰れて仕舞えば良かったのに、そう覚悟をしていたのに結局は我が身かわいさに走ったのか、私は。
あぁ、なんで。いつもならこんな回想などせずに、「次」を考えているはずだ。いつもなら、口が勝ってに罵る言葉を吐くはずだ。だが、でない。さっきから、空気を鼻で吸って口で吐く、呼吸音しかこの空間に響いていない。
そうか。もう何かをする気力すら、この身体には無いのだ。なら、もうどうでも良い。光は掴めなかったが、その光が全てでは無かった。まだ此処には娯楽がある。身体がある。ノロマだろうが、怠惰だろうが、もう知らん。
あぁ、晴れやかだ。実に晴れやかだ。ありとあらゆる強制から離れた気分はこんなにも良いものなのか。ただ、ただ、楽しい。錯覚まで見えてきた。そう、「一筋の光」(あれ)を見る前より周りが少し明るく見えると言う錯覚を。
「哀愁を誘う」と言う言葉は、生まれてこの方小説意外で聞いたことがない。しかし、思い当たる風景がないわけでもない。学校でグループを作れずに先生に諭されるクラスメイトとか、つい先日公園で見かけた、ベンチに1人で座っている老人とか、そういったものが思い浮かぶ。どうやら、私は何かの社会的集団から孤立して居る姿に「哀愁」を感じて居るらしい。ただ、自分が最もらしいと考えるのは、小説で大切な友人、親戚、過疎等の人を亡くした設定の人にスポットライトが当てられ、動きの一つ一つを事細かでありながら、端的に描写されている文だろう。その文一つで、私を含めた読者は「哀愁を誘う」の見方を体験させられてしまう。私はまだその描写が入る場面を現実で見たことがないが、もし起こりようものなら、私は今以上の「哀愁」と言うものを知るのだろう。それは少し怖い。
紅茶の香り
「紅茶の香り」この言葉を見て最初に連想するのは何であろう?大抵の人は、渋い香り、甘い香り、爽やかな香りなど《どんな香りか》を重点に置いて連想するのではないかと私は考えている。それは何故か?単純だ。私たちの生活の中では、「紅茶の香り」などと言うものはどんな紅茶を飲むか《選ぶ》時しか気にしないものだ、と捉えてるからだ。ココ⚪︎やビッ⚪︎ボーイなど茶葉も他のドリンクと同様に選べたりする飲食店やカフェの陳列棚などがその良い例だろう。