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 『一年間を振り返る』、義務教育期間の毎年、年末になると紙の質や添えられる言葉は違うけれど、この定型文がついた用紙を寄越された。私は、これを年末に必ず書かされる反省文以外の何者でもないと思っていた。
 その理由は、まぁ単純だ。先生が毎年、クラスメイトの「何を書けばいいんですか」に返す返答や(例)に書かれている文章は決まってこうだ、「〇〇に失敗したので、次は◽︎◽︎を工夫して頑張ります」もう一つ成功して向上心を示す文もあったと思うが、私は公言できるほどの成功や点数を義務教育期間内で一度も取ったことが無かった。そのため、その文があった記憶はうる覚えである。
 反省文、もとい振り返り用紙は大半の人がいつも未提出になっていた。今思えば、大半の人が子供騙しな用紙だと気づいて居たのかもしれない。それでも、真面目と表されて居た当時の私は、注意されるのが嫌で、問題児に対する嫌悪感と若干の焦燥感で毎年用紙に鉛筆をおとしていた。例に書かれるような大層な思想もだいそれた日常も私は送ってなかったので、内容を見繕うのに苦戦した。友達も少なく、ただただ怠惰な日常の中で出来たささやかな出来事を失敗ごとにして提出日ギリギリで出した。毎回書く中で、「なんで、書かないといけないんだろう」と思った。誰だって自分がやったことを失敗だと言って説明するのは嫌だし、そもそも自分の日常を逐一自分手で他人の目に映しに行くなんて寒気しかない。学校としては、『トライアンドエラー』の精神育成のために出したものなのだろが、授業で学んだことを活かせる手作りキットの結果を記録する記録帳の方がいいと今でも思う。
 しかし、だ。用紙が返却された時の先生のコメントは嬉しかった。用紙を書くためにした苦労に決して見合うわけでわない。だけど、渡した時の先生がサラッと目を通した時にする軽い質問から繋がる会話や内容に触れた感想のコメントは私の存在を肯定してくれたようで、悪くなかった。まぁ、当時は「先生」と言う生き物を鬼の様に嫌悪し、畏怖したので、近寄って欲しくなくてそう言う場面は避けて居た。だが、今になって振り返るとそう思える様になった。これは、義務教育を終え自分の日常行動に進んで干渉してくる人が少なくなったからだろう。自分から発信をしなければ自分の座標すら教えてくれない世界はとても不安でならない。
 義務教育期間が過ぎてニ年。私が一年間を振り返って思うのは、『自分を見て欲しい、見て欲しかった』と言うことだ。世界には『私』しかいない、それ以外は『NPC』だけだ。詳細が分かってるものは大半だが生物学上同類の生物は推測でしか測れない。だから、不安だ。だから、怖い。だから、認めて欲しい。この世界で同類と扱われる人たちに。しかし、それは視点が『私』である限り不可能なことだ。そう分かって居ながらも私は来年も同じ事を思うのだろう、絶え間なく続く不安に浸りながら。

12/30/2024, 12:28:54 PM