羽化

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2/28/2026, 4:05:25 PM

遠くの街へ

誰も乗っていないはずの電車は、雨降る夜を走る。
知らない場所へ、■■に着くまで、あたし達を運ぶ。
灯りがだんだん落ちて、暗くなる…それは電車の心地よい揺れ、ぼんやりしたあたたかさと相まって…
「揺り籠みたいで、ずっと揺られてたいな」って、あなたは笑って言ってたっけなあ。
ごとごと、ざあざあ、ぽたん、こつん…
雨音が歌みたいで。あたしとあなたの子守唄になる。

『次は、しェぬゃいゐうそのむこ゜ぇ』

よく聞き取れない車内放送がそう告げる。
終点まで、あと■駅。
回送とすら映されていない電光掲示板。
綺麗に並んだ街灯の目が、こちらを見ていた。
(初めて乗る電車だから、ちゃんと着くか心配だなあ)
そんな事をぼうっと考えるあたしの隣で、 静かに、心地良さそうに眠っているあなた。
顔は青白く、寝息すら聞こえない。雨で随分と濡れたから、手の先まで冷えきっていた。

『次は、ぬかュたきウぬゑよょう』

勝手にあなたの手を握って、指先を暖める。
…いつも体温が低いんだから、もう少し厚着すればいいのに… と思いながら、あたしのマフラーをそっと肩に掛けてやった。
それを見ていた吊り革が、1本伸びてくる。
何もあげないつもりだった…が、あんまりに物欲しそうな顔をしていたので、数十秒見つめあったあと……
つい、情けを掛けてしまった。
輪っかに、あたしの手袋を付けてやる。
吊り革は嬉しそうにふらふらと揺れて、また元の位置へ戻って行った。

『次は、よミひか゜しあやのとュお』

…手すりや窓、扉、座席たちが次々とあたしを見にきた。ああ、こうなるからやりたくなかったんだ。
あげない、あげないったら。もう、お気に入りの帽子も手袋もコートも、全部あげちゃったんだから。 だから…そんなに見ないでよ。
そう云うと彼らは、急に怒りはじめた。
窓はガタガタ、扉は空いたり閉まったり。手すりは緩やかに首を締めようとしてきた。

煩い。執拗い。うるさいうるさいうるさい!!!!!
この人が起きてしまうでしょうが。お馬鹿。
ポッケに仕舞ってた飴玉、ラムネ。花、ピンバッジ、
折りたたみ傘。全部くれてやった。ぐずっていた彼らはそれで満足したようで、やっと静かになった。
あーあ、あなたにあげるって約束してたのになあ。
そんな事を考えてたら、いつもの錆びた踏切が、「次の次が終点だ」と窓の外から話しかけてきた。 
それに返事をして……電車に揺られながら、あなたの綺麗な寝顔を眺める。…起こすべきか、悩むなあ。
ふと…暖めた、あたしより大きな手をみる。細い指。あなたのポッケから、家の鍵が覗いていた。
もう全部あげちゃって、何も残ってないあたし。
帰りを待つ人も、帰る場所もある、あなた。
……よし、決めた。 ごめんよ。

あたしは「またね」と手を振って、終点より1つ前の駅で降りる。あなたを電車に置いて。
ドアの閉まる音と共に、一層雨が強くなる。
もう傘を持っていない私は駅を歩く。
改札はない。駅名標も読めない。つめたい雨だけ。
こつん、ぽた、ざあざあ、ぽつん。
「落っこちる場所によって、音色が違うんだねえ」
なんて言っても、もう誰も聞いていないみたいだった。

アスファルトに染み込んだ雨が、錆びた街灯の光に反射してはきらきらと白く輝いていた。
まるで宝石が埋め込まれているみたいで、またひどく欲しくなる。 でも、また一歩歩く度、それは遠のいて…を繰り返し。終には、地獄へ続く道標になった。
ああ、寒い。
あなたは、ちゃんと家に帰れただろうか。
一つ…もし帰れたなら、最後に残ったあたしの欠片を、遠くの街に連れて行ってほしい。

だから……

わたしの代わりに、病室で目を覚ましておくれ。

2/27/2026, 3:03:56 PM

現実逃避

あの時、ああしていれば。
そんな後悔が胸にずっとへばりついている。
どうしようもない。どうしようもなかったんだ。
同じ言葉を反芻しては、また思考がぐるぐる回りつづける。
自分がしてしまったこと、犯した罪。
それだけが、ずっとこちらを見ている。

「何してるんですかあ」
その少女は、毎日私の部屋にくる。
舌足らずで妙に甘ったるい声。足音がしない。
カレンダーも時計も止まった、とっ散らかった暗い部屋の中…綺麗で、異様な存在だけがそこにいた。
「ねえ お外、行きましょうよお。
 …どうせここにいても、なにも起こりませんよ」

がさがさ。ずる、ずる。
「あはは これどうしたんですかあ? おめめ、ないないしちゃいましたか?」
彼女は勝手に部屋を歩き回り、漁って…ボタンを引きちぎったぬいぐるみも、割れた鏡の破片も、一つ一つ丁寧に見つけ、拾い上げては…
「はいはい、おうちに帰りましょうねえ」
そうやって、優しい声でゴミ箱に捨てる。
それが本来、誰に向けられる言葉だったのかを、私は考えないようにした。
片付けなんて頼んでもいない。部屋に呼んでもいない。鍵だって渡していない。
 
キッチンの明かりが、少し点滅してからつく。
「今日は唐揚げですよぅ」
毎日毎日毎日、勝手に部屋に上がっては、勝手に少し掃除して、勝手に飯を作って出ていく。
私より随分と年下。私が昔に通っていた頃と同じ、中学の旧型制服。艶のある髪からほんのりバニラの匂いがする。かなり耳につく、独特な話し声。
傍から見たら羨ましく思うかもしれないが…私は自分自身の聖域に、土足で踏み込んでくる人間が嫌いだった。それなのに、彼女は…

 部屋に、なんとなく揚げ物の匂いが漂ってきた。
「できましたあ。 唐揚げ、好きでしたよねえ?」
彼女は部屋の端まで来て、私に皿を差し出した。
…揚げたての唐揚げが山盛りだ。少なくとも3人前はある。
「…なんですかぁその顔。 イヤなんですかあ?」
そのわざとらしく下がった眉は、少し悲しそうにも、くすくすと嘲笑うようにも見えた。
今日は唐揚げ、昨日はトンカツ。一昨日はコロッケ…と、彼女は毎日揚げ物しか作らない。そして毎回、決まったように言う『好きでしたよね』。
……それがいくら気に食わなくても、腹は減る。
私は無言でベッドに座り直し、皿を受け取った。
彼女は笑顔で、そんな私の隣に座る。
「…いただきます」
「どうぞ〜」
きつね色の唐揚げにかぶりついた。
パリッ、といい音を立てて衣が砕け…中から肉汁が出てくる。うまい。 
油の匂いがする。何か、懐かしい感覚だった。

昼休みの教室。中学の頃、私は窓際の席で…後輩と机をくっつけて弁当を食べていた。
「えへへえ。せんぱい、おいしいですかあ?」
私は当時、丁度食べ盛りの時期で…常に腹が減っていた。 弁当だって足りなくて…
…それを部活の後輩に軽く相談したら、毎日弁当のおかずを作ってきてくれるようになった。
「せんぱいって、揚げ物すきなんですかぁ?」
「ああ。お前がくれる唐揚げが、一番好きだ」
からかうように笑っていた彼女は、少し驚いたあと… また心底嬉しそうに微笑んだ。
陽だまりのように暖かい、過去の記憶。

……その瞬間、喉の奥がひどく狭くなった。
あ、と思った時にはもう遅かった。
身体の奥からぞわぞわとした感覚が押し上がってくる。 歪む視界の中、重たい身体を引き摺り…手探りで、やっとの思いで洗面所までたどり着いて…
喉が焼ける。視界が滲む。
「あれぇ。吐いちゃいました?
 …大丈夫ですかぁ?」
背中をさする手は、あの時と同じ温度だった。
コップに入った水も手渡され、それをどうにか喉に流し込む。イガイガした痛みに耐え、私は思わず前を向く。
洗面所の鏡は割れていた。
…この部屋の鏡は、どれももう残っていない。
「あはは ひどい顔ですよお」
ガラスの破片に映っているのは、私だけだ。

もしあの時、私が呼ばなければ。

帰り道、彼女はコンビニ袋を揺らして笑っていた。
「ねえ せんぱい。
 明日は…何、食べたいですかあ?」
何も変わらない、幸せな日だった。でも、私は…
「なんでもいいぞ。また明日」とだけ答え、いつもの交差点で、私だけ先に歩きだした。
ふと、何か忘れたような気がして。
「あ、ちょっと待って」
無意識に名前を呼ぶ。彼女は嬉しそうに振り向いた。
…その瞬間。
ブレーキの音と、破裂するような衝撃音。
ガソリン。油の匂い。
彼女はもう、そこにはいなかった。

「あはは。せんぱいは、悪くないですよお」
浅い呼吸を繰り返す私に、彼女はハグをした。
あの時は同じくらいの背だったはずなのに、私だけが随分と大きくなってしまった。
「大丈夫、だいじょうぶ。
 わたしは、ずっとここにいますからねえ。」
壊れて止まってしまったままの精神、時計、部屋。
そんな場所で、幻覚とも幽霊ともつかぬ彼女に、またあの甘ったるい声で赦され続けている。 赦されたかった私が見た、まるで都合のいい白昼夢だ。
其れは、ただの現実逃避だった。

2/26/2026, 2:31:34 PM

君は今

授業中。頬杖をつき、毎日窓の外を眺めている君。
君は今、何を見ているんだろう。

そんな小さな疑問が、何故か無性に気になった。
どこか憂いを帯びた目に、外から何か銀色の小さな光が反射して…星のようにきらきらと瞬く。それが綺麗だった。
青い空を見ているのか、黒い鳥を見ているのか、それともどこか、ずっと遠くの街か…考えれば考えるほど知りたくなる。

その子は、話したことのないクラスメイト。声も聞いたことがない。
いつも一人で… 僕が言えたことではないが、仲のいい友人もいないようだし…噂で、変人だとも聞いたことがある。僕は、挨拶すらしたことがなかった。でも。折角の機会だと、勇気を出して…
「何を、見てたの」
授業が終わった放課後、初めて話しかけた。
「…気になるかい?」
君は、視線を窓から外さずにそう言う。思っていたよりハスキーな、落ち着いた声だった。そして…
「おいでよ」
…気がついたら、椅子を引く音一つせず、君は僕の隣に立っていた。

君に連れられて、人がいない、暗い階段を登る。
古い鉄製のドアの錆びたドアノブを回すと、そこは夕暮れに染まった屋上だった。
息が止まりそうなくらい美しい。
「ふふ… 綺麗だろう」
欄干に凭れ、満足そうにする君に、少し聞いてみる。
「じゃあ…今までずっと、空を見てたってこと?」
「…君はそう思うのかい?」
そう曖昧に返されて、ふいに目が合う。君の瞳は吸い込まれそうな黒で、表情は微笑んでいた。
いつも後ろ姿しか見えなかったもんで、向き合ったのは初めてだった…けど、ほんとうに綺麗な顔だ。
「ぼくはね、アレをいつも見てるんだよ」
僕が見蕩れているうちに彼はまた視線を空に戻して、上空を指さした。白く細い指の、ずうっと先には…

銀色の円盤があった。
夕焼け空に雲だけが流れているのに、異様なソレだけは止まっているみたい。
…世間でよく言われるUFOそのものだ。クルクルと小さく回りながら、僕らの遥か上空を舞っている。夕日の光を反射しては、星のようにキラキラ輝いて……あまりの現実味が無さに、少し笑えてきた。
「皆には、内緒にしてくれるかい?」
「あんまり多く知られたら、仲間たちが怒るんだ」
人差し指を口元に添える仕草と共に…また妖しく、微笑みながら僕にそう囁く。
僕が素直にこくり、と頷くと、君はふふっと笑った。
………
それから、2人きりの屋上で君と話した。
飛行体のこととか、聞きたいことは山ほどあったけれど…… あえてすきな食べ物とか、そんな日常の話ばかりした。それは僕にとって、今までの人生で一番よく笑って…帰るのがが惜しいくらい、楽しい時間だった。
「ああ、楽しかった。…ぼくさ、明日には帰るんだ。
 最後に友達ができて、良かった」
そう云う君は、ちょっぴり寂しそうにみえて、沈みゆく夕日がよく似合ってた。
そこからどうやって帰ったのかは、よく覚えていない。


次の日学校に行くと、前の席には誰も居なかった。 
休みだとか、転校したとかでもなく、ただ、誰も彼の存在を覚えていなかったのだ。
僕は机や靴箱…あらゆる場所から君の痕跡を探す。
同級生に聞いても、先生に聞いても、それでも誰も君のことは覚えていなかった。僕の白昼夢だったのか、それとも君がただ空に帰ってしまっただけなのか。たった数時間の思い出が、君の声が頭から離れてくれなくて、あれからずっと君を探している。

授業中。頬杖をつき、毎日窓の外を眺めている僕。
君は今、何を見ているんだろう。

2/26/2026, 12:20:23 AM

物憂げな空

少し錆びているカーブミラーと白いガードレールだけがある、高架下の寂れた分かれ道。
早朝に散歩するのが趣味だった私の、お気に入りの場所だ。ずっと静かで、人がいるのを見たことがない。
いつも薄暗く、たまに霧がかかる。それが神秘的で、隠れ家のようだった。
今日も歩く。いつもの日常だ。重たい灰色の雲が空を覆っている。高速道路が上にあるため、風と共にゴォゴォと響くような音が聞こえる。
そのうちカーブミラーの頭が見えてくるので、少しだけ早く足を進める…と、風の音がだんだん聞こえなくなってくる。

ああ、この静けさ。これが私の大好物なのだ。この澄んだ冬の匂い、冷えた空気を肺でゆっくりと吸い込む。いつもの安心できる居場所で、正直に息ができる朝5時、私は満ち足りていた。 
…ガードレールの下から覗く足を見るまでは。

靴だった。
土を被っているローファー。
その続きに、黒と白の縞模様の靴下と、白い肌が見えた…あたりで、私はもう逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。

目を逸らそう。何も見なかったことにしよう。警鐘が鳴り響く頭の中、必死に自分にそう言い聞かせ…
来た道を戻ろうと決意し、その先も見ず振り返った。
「アンタ、こんなとこで何やってんスか?」
…その目の前には、少女が立っていた。
切り揃えられたショートヘアだ。
あまりの驚きで、思わず叫んでしまう。
「うひゃっ、うるさぁー」
少女は表情をコロッと変えて、わざとらしく耳を塞ぐ仕草をしてみせた。 シックな色のネクタイが揺れる。近くの学校の制服だ。
「き…君だって、どこの誰だ。いつからいたんだ」
混乱しながら反射的に聞いたものの、声が裏返った。
何スかその声、と笑いながら彼女はつづける。
「あははっ、ジブンすか?…ジブンは… えー…」
それまで騒がしかったのに、急に口を噤んだ。それから少し間をおいて、「…えっと…わかんないっす」と小さく呟いた。俯いて、彼女は靴先で地面を擦る。
「うぅーん、たしか…なんかを探してて…」
彼女が悩んでぶつぶつ言ってる間に、私はだんだんと冷静になってきた。 
 
そして、自分の背後にあるモノを思い出し…… 
脳裏に、嫌な可能性が浮かんだ。
例えば、もしこの少女の探し物がお友達だったとしよう。 ……それで、考えたくはないが、もし…背後のアレが、死体で…その友達だったとしたら……
人通りも、車も、監視カメラだってないこんな早朝の田舎道だ。私が疑われるのは間違いないだろう。
彼女がガードレールの下を見る前に、ここから離さないと…
「…すんませんけど、一緒に探してくれません?たしかこの辺にあったんすよぉ…」
そんな私の考えはお構いなしに、困ったような、甘えたような声でそう頼んできた。
風が吹いた。彼女の髪だけが動かなかった。
「どうしてこの辺だって分かるのか、っすか? …ジブンでも謎っす。『何かを落とした』ってのは覚えてるんすけど…」
どうも記憶が飛び飛びで…と首を傾げ、頭を掻きながら周りを見渡している。
 
頼むから私の背後は覗き込むなよ、と心の中で祈りつつ、(探し物ってのは、友達ではなかったのか)ということに少しだけ安堵した。
依然ピンチなのは変わりないが、その落とし物を一緒に探す体で、この場から離れるのはどうか…と考えついた。
「いいよ、私も一緒に探すよ… 手始めにさ、こっちの分かれ道に行かないかい?」
「マジっすか!あざーす!…でも、なんでこの道なんすか?」
またコロッと変わる表情。仕草の一つ一つも綺麗だ。
カーブミラーに、重たい雲がゆっくりと流れていた。
「ああ…キミのその制服、この先にある中学校のもんだろう?」
特に考えてはいなかったが、彼女のネクタイを見てそう説明した。咄嗟にしては、いい理由を思いついたもんだ。
「ん…そうだったんすかねぇ?なら、この道…案内してくださいよ」
やや歯切れの悪い返事だが、彼女の足が右に向きはじめた。よし、これで離れられる。よかった。案外上手くいった。
私もカーブミラーの真下からやっと動けて、ガードレールに沿いながら歩き始めた。
側溝は見ないようにしよう、と目を斜め下に逸らす。
すると、不意に自分の靴と…横を歩く彼女の靴が視界に入った。 私は言葉を無くす。

…つま先に、土が付着したローファーだ。
中々見ない、黒と白の縞模様の靴下。その続きから少し見える、白い肌。

「あはは。もー、どこ見てんすか?
 早く探しにいきましょーよ」

そう微笑む少女の、少し長いスカートが揺れる。
物憂げな空に、良く似合う黒髪だった。

2/24/2026, 2:15:43 PM

小さな命

 わたしの友達は、みなそろって犬や猫や鳥など、自慢のペットを飼っていた。
放課後に皆と帰ると、毎日のように犬が芸を覚えただとか、猫が甘えてきただとか、そんな話が始まる。
…そうなるたびに私は、そっと列より後ろに移動しては、いつもと同じように、校舎裏の柵から飛び出ている葉を数枚千切っていた。
少し柑橘の良い香りがする、特別綺麗な葉っぱだ。
もちろん誰にも見せずにポケットに仕舞う。

 家に着いたら、すぐ靴を脱いでそのまま自室に向かった。わたしの愛する、小さな命の為に。
教科書やノートが散らばった机の端にある虫籠、それを開けた。でも少し古いもんで、かたり、と固い音がした。
緑の蓋と透明なケースの隙間から出てきたのは、わたしの小指ほどしかないアゲハ蝶の幼虫。
もう数日前に脱皮は済ませていた。だから、黒と白のかっこいい保護色から、鮮やかな緑と目に見える模様に変わっている。採れたての葉をやると、ふにふにと動く。愛らしくって堪らない。
 
ここ何週間か、わたしはこの子の世話をしていた。
毎日、同じ場所から同じ葉を取ってくる。同じ時間に与えて、同じ時間に観察する。
わたしが自室以外で何をしようが、何をされようが、この子には関係がない。この子はいつも、同じ調子で私を受け入れ、出迎えてくれる。
そんな変わらない私の日常が、心底愛おしかった。
 
…でも、今日はいつもと違った。葉を食べない。動き回るだけだ。
私が横で宿題をして日記を書いて、ずうっと付きっきりでいたのに、とうとう食べることはなかった。
 考えたくはないが、もし、もし蛹になろうとしているならどうしよう。そうしたら、この子が変わってしまう。姿が変わって、ご飯も住む場所もいらなくなって、用無しになったわたしの元から飛び立ってしまう。それは嫌だ。
…どうして? と頬杖ついて問うても、当たり前に返事はない。もしこの子が犬だったならワンワン、猫ならニャアニャア、鳥ならピーピーと返事しただろうけど、 あいにく、わたしは幼虫のことばを知らない。

気がつくと、私はどこかにいた。がらすみたいな床だ。

「…これはね、ぷらすちっくだよ」
どこからか底抜けに明るい声がする。誰だろう。
「なんと、たべられないんだ」
そんなのしってるよ。わたしにだって分かるもの。
不意に下を見ると、つぎは緑の葉っぱで埋め尽くされていた。あの柑橘の匂いがする。…レモンの葉か。
「こっちは、たべれるよ」
……そんなの、普通は食べないよ。お腹壊すし。と、すこしぶっきらぼうに答えた。
「そうなの。 おいしいのになあ」
声が少し、悲しそうに聞こえた。
わたしは他人の感情を読み取って反応する…というのがいちいち面倒だから、よく疎まれることがある。
…でも、もしかして…こいつは傷ついたのだろうか。ならこういう時、なんていうんだろ。謝る、とか?
わたしには珍しく他人の為に考えて、考えて、なんとなく考えが纏まりかけたとき、後ろからぱり、ぱり、と音がした。
「ほらね。おいしい」
……食ってる?マジで?
おいしいんだ。ええ。その奇行に驚きと、なんだかやばい人なんじゃないかと今更怖くなってきて、軽く混乱してくる。そんなわたしの耳元で声がした。
「ふふ。いつも、きみがくれるじゃない」
それを聞いて振り返っても、もうなんにもなかった。

「たまには、ぼくだって、きみにおしえたくてさ」
そいつは最後に、そんなことを言っていた気がする。
気がついたら、目の前に見覚えのある木目があった。私は机に向かったまま寝ていたらしい。窓が空いていて、月明かりと共にぬるい夜風が差し込んでくる。
手の上には、緑の葉っぱが1枚だけ乗っていた。籠の中は空っぽ。あの子はいなかった。
あの子は羽化して蝶として飛んでいったのか、それとも外に落ちて芋虫として死んだのか、わからない。
硬い葉の感触と共に、柑橘の匂いが口の中に広がる。
小さな命の代わりに残ったそれを、わたしは食べた。

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