遠くの街へ
誰も乗っていないはずの電車は、雨降る夜を走る。
知らない場所へ、■■に着くまで、あたし達を運ぶ。
灯りがだんだん落ちて、暗くなる…それは電車の心地よい揺れ、ぼんやりしたあたたかさと相まって…
「揺り籠みたいで、ずっと揺られてたいな」って、あなたは笑って言ってたっけなあ。
ごとごと、ざあざあ、ぽたん、こつん…
雨音が歌みたいで。あたしとあなたの子守唄になる。
『次は、しェぬゃいゐうそのむこ゜ぇ』
よく聞き取れない車内放送がそう告げる。
終点まで、あと■駅。
回送とすら映されていない電光掲示板。
綺麗に並んだ街灯の目が、こちらを見ていた。
(初めて乗る電車だから、ちゃんと着くか心配だなあ)
そんな事をぼうっと考えるあたしの隣で、 静かに、心地良さそうに眠っているあなた。
顔は青白く、寝息すら聞こえない。雨で随分と濡れたから、手の先まで冷えきっていた。
『次は、ぬかュたきウぬゑよょう』
勝手にあなたの手を握って、指先を暖める。
…いつも体温が低いんだから、もう少し厚着すればいいのに… と思いながら、あたしのマフラーをそっと肩に掛けてやった。
それを見ていた吊り革が、1本伸びてくる。
何もあげないつもりだった…が、あんまりに物欲しそうな顔をしていたので、数十秒見つめあったあと……
つい、情けを掛けてしまった。
輪っかに、あたしの手袋を付けてやる。
吊り革は嬉しそうにふらふらと揺れて、また元の位置へ戻って行った。
『次は、よミひか゜しあやのとュお』
…手すりや窓、扉、座席たちが次々とあたしを見にきた。ああ、こうなるからやりたくなかったんだ。
あげない、あげないったら。もう、お気に入りの帽子も手袋もコートも、全部あげちゃったんだから。 だから…そんなに見ないでよ。
そう云うと彼らは、急に怒りはじめた。
窓はガタガタ、扉は空いたり閉まったり。手すりは緩やかに首を締めようとしてきた。
煩い。執拗い。うるさいうるさいうるさい!!!!!
この人が起きてしまうでしょうが。お馬鹿。
ポッケに仕舞ってた飴玉、ラムネ。花、ピンバッジ、
折りたたみ傘。全部くれてやった。ぐずっていた彼らはそれで満足したようで、やっと静かになった。
あーあ、あなたにあげるって約束してたのになあ。
そんな事を考えてたら、いつもの錆びた踏切が、「次の次が終点だ」と窓の外から話しかけてきた。
それに返事をして……電車に揺られながら、あなたの綺麗な寝顔を眺める。…起こすべきか、悩むなあ。
ふと…暖めた、あたしより大きな手をみる。細い指。あなたのポッケから、家の鍵が覗いていた。
もう全部あげちゃって、何も残ってないあたし。
帰りを待つ人も、帰る場所もある、あなた。
……よし、決めた。 ごめんよ。
あたしは「またね」と手を振って、終点より1つ前の駅で降りる。あなたを電車に置いて。
ドアの閉まる音と共に、一層雨が強くなる。
もう傘を持っていない私は駅を歩く。
改札はない。駅名標も読めない。つめたい雨だけ。
こつん、ぽた、ざあざあ、ぽつん。
「落っこちる場所によって、音色が違うんだねえ」
なんて言っても、もう誰も聞いていないみたいだった。
アスファルトに染み込んだ雨が、錆びた街灯の光に反射してはきらきらと白く輝いていた。
まるで宝石が埋め込まれているみたいで、またひどく欲しくなる。 でも、また一歩歩く度、それは遠のいて…を繰り返し。終には、地獄へ続く道標になった。
ああ、寒い。
あなたは、ちゃんと家に帰れただろうか。
一つ…もし帰れたなら、最後に残ったあたしの欠片を、遠くの街に連れて行ってほしい。
だから……
わたしの代わりに、病室で目を覚ましておくれ。
現実逃避
あの時、ああしていれば。
そんな後悔が胸にずっとへばりついている。
どうしようもない。どうしようもなかったんだ。
同じ言葉を反芻しては、また思考がぐるぐる回りつづける。
自分がしてしまったこと、犯した罪。
それだけが、ずっとこちらを見ている。
「何してるんですかあ」
その少女は、毎日私の部屋にくる。
舌足らずで妙に甘ったるい声。足音がしない。
カレンダーも時計も止まった、とっ散らかった暗い部屋の中…綺麗で、異様な存在だけがそこにいた。
「ねえ お外、行きましょうよお。
…どうせここにいても、なにも起こりませんよ」
がさがさ。ずる、ずる。
「あはは これどうしたんですかあ? おめめ、ないないしちゃいましたか?」
彼女は勝手に部屋を歩き回り、漁って…ボタンを引きちぎったぬいぐるみも、割れた鏡の破片も、一つ一つ丁寧に見つけ、拾い上げては…
「はいはい、おうちに帰りましょうねえ」
そうやって、優しい声でゴミ箱に捨てる。
それが本来、誰に向けられる言葉だったのかを、私は考えないようにした。
片付けなんて頼んでもいない。部屋に呼んでもいない。鍵だって渡していない。
キッチンの明かりが、少し点滅してからつく。
「今日は唐揚げですよぅ」
毎日毎日毎日、勝手に部屋に上がっては、勝手に少し掃除して、勝手に飯を作って出ていく。
私より随分と年下。私が昔に通っていた頃と同じ、中学の旧型制服。艶のある髪からほんのりバニラの匂いがする。かなり耳につく、独特な話し声。
傍から見たら羨ましく思うかもしれないが…私は自分自身の聖域に、土足で踏み込んでくる人間が嫌いだった。それなのに、彼女は…
部屋に、なんとなく揚げ物の匂いが漂ってきた。
「できましたあ。 唐揚げ、好きでしたよねえ?」
彼女は部屋の端まで来て、私に皿を差し出した。
…揚げたての唐揚げが山盛りだ。少なくとも3人前はある。
「…なんですかぁその顔。 イヤなんですかあ?」
そのわざとらしく下がった眉は、少し悲しそうにも、くすくすと嘲笑うようにも見えた。
今日は唐揚げ、昨日はトンカツ。一昨日はコロッケ…と、彼女は毎日揚げ物しか作らない。そして毎回、決まったように言う『好きでしたよね』。
……それがいくら気に食わなくても、腹は減る。
私は無言でベッドに座り直し、皿を受け取った。
彼女は笑顔で、そんな私の隣に座る。
「…いただきます」
「どうぞ〜」
きつね色の唐揚げにかぶりついた。
パリッ、といい音を立てて衣が砕け…中から肉汁が出てくる。うまい。
油の匂いがする。何か、懐かしい感覚だった。
昼休みの教室。中学の頃、私は窓際の席で…後輩と机をくっつけて弁当を食べていた。
「えへへえ。せんぱい、おいしいですかあ?」
私は当時、丁度食べ盛りの時期で…常に腹が減っていた。 弁当だって足りなくて…
…それを部活の後輩に軽く相談したら、毎日弁当のおかずを作ってきてくれるようになった。
「せんぱいって、揚げ物すきなんですかぁ?」
「ああ。お前がくれる唐揚げが、一番好きだ」
からかうように笑っていた彼女は、少し驚いたあと… また心底嬉しそうに微笑んだ。
陽だまりのように暖かい、過去の記憶。
……その瞬間、喉の奥がひどく狭くなった。
あ、と思った時にはもう遅かった。
身体の奥からぞわぞわとした感覚が押し上がってくる。 歪む視界の中、重たい身体を引き摺り…手探りで、やっとの思いで洗面所までたどり着いて…
喉が焼ける。視界が滲む。
「あれぇ。吐いちゃいました?
…大丈夫ですかぁ?」
背中をさする手は、あの時と同じ温度だった。
コップに入った水も手渡され、それをどうにか喉に流し込む。イガイガした痛みに耐え、私は思わず前を向く。
洗面所の鏡は割れていた。
…この部屋の鏡は、どれももう残っていない。
「あはは ひどい顔ですよお」
ガラスの破片に映っているのは、私だけだ。
もしあの時、私が呼ばなければ。
帰り道、彼女はコンビニ袋を揺らして笑っていた。
「ねえ せんぱい。
明日は…何、食べたいですかあ?」
何も変わらない、幸せな日だった。でも、私は…
「なんでもいいぞ。また明日」とだけ答え、いつもの交差点で、私だけ先に歩きだした。
ふと、何か忘れたような気がして。
「あ、ちょっと待って」
無意識に名前を呼ぶ。彼女は嬉しそうに振り向いた。
…その瞬間。
ブレーキの音と、破裂するような衝撃音。
ガソリン。油の匂い。
彼女はもう、そこにはいなかった。
「あはは。せんぱいは、悪くないですよお」
浅い呼吸を繰り返す私に、彼女はハグをした。
あの時は同じくらいの背だったはずなのに、私だけが随分と大きくなってしまった。
「大丈夫、だいじょうぶ。
わたしは、ずっとここにいますからねえ。」
壊れて止まってしまったままの精神、時計、部屋。
そんな場所で、幻覚とも幽霊ともつかぬ彼女に、またあの甘ったるい声で赦され続けている。 赦されたかった私が見た、まるで都合のいい白昼夢だ。
其れは、ただの現実逃避だった。
君は今
授業中。頬杖をつき、毎日窓の外を眺めている君。
君は今、何を見ているんだろう。
そんな小さな疑問が、何故か無性に気になった。
どこか憂いを帯びた目に、外から何か銀色の小さな光が反射して…星のようにきらきらと瞬く。それが綺麗だった。
青い空を見ているのか、黒い鳥を見ているのか、それともどこか、ずっと遠くの街か…考えれば考えるほど知りたくなる。
その子は、話したことのないクラスメイト。声も聞いたことがない。
いつも一人で… 僕が言えたことではないが、仲のいい友人もいないようだし…噂で、変人だとも聞いたことがある。僕は、挨拶すらしたことがなかった。でも。折角の機会だと、勇気を出して…
「何を、見てたの」
授業が終わった放課後、初めて話しかけた。
「…気になるかい?」
君は、視線を窓から外さずにそう言う。思っていたよりハスキーな、落ち着いた声だった。そして…
「おいでよ」
…気がついたら、椅子を引く音一つせず、君は僕の隣に立っていた。
君に連れられて、人がいない、暗い階段を登る。
古い鉄製のドアの錆びたドアノブを回すと、そこは夕暮れに染まった屋上だった。
息が止まりそうなくらい美しい。
「ふふ… 綺麗だろう」
欄干に凭れ、満足そうにする君に、少し聞いてみる。
「じゃあ…今までずっと、空を見てたってこと?」
「…君はそう思うのかい?」
そう曖昧に返されて、ふいに目が合う。君の瞳は吸い込まれそうな黒で、表情は微笑んでいた。
いつも後ろ姿しか見えなかったもんで、向き合ったのは初めてだった…けど、ほんとうに綺麗な顔だ。
「ぼくはね、アレをいつも見てるんだよ」
僕が見蕩れているうちに彼はまた視線を空に戻して、上空を指さした。白く細い指の、ずうっと先には…
銀色の円盤があった。
夕焼け空に雲だけが流れているのに、異様なソレだけは止まっているみたい。
…世間でよく言われるUFOそのものだ。クルクルと小さく回りながら、僕らの遥か上空を舞っている。夕日の光を反射しては、星のようにキラキラ輝いて……あまりの現実味が無さに、少し笑えてきた。
「皆には、内緒にしてくれるかい?」
「あんまり多く知られたら、仲間たちが怒るんだ」
人差し指を口元に添える仕草と共に…また妖しく、微笑みながら僕にそう囁く。
僕が素直にこくり、と頷くと、君はふふっと笑った。
………
それから、2人きりの屋上で君と話した。
飛行体のこととか、聞きたいことは山ほどあったけれど…… あえてすきな食べ物とか、そんな日常の話ばかりした。それは僕にとって、今までの人生で一番よく笑って…帰るのがが惜しいくらい、楽しい時間だった。
「ああ、楽しかった。…ぼくさ、明日には帰るんだ。
最後に友達ができて、良かった」
そう云う君は、ちょっぴり寂しそうにみえて、沈みゆく夕日がよく似合ってた。
そこからどうやって帰ったのかは、よく覚えていない。
次の日学校に行くと、前の席には誰も居なかった。
休みだとか、転校したとかでもなく、ただ、誰も彼の存在を覚えていなかったのだ。
僕は机や靴箱…あらゆる場所から君の痕跡を探す。
同級生に聞いても、先生に聞いても、それでも誰も君のことは覚えていなかった。僕の白昼夢だったのか、それとも君がただ空に帰ってしまっただけなのか。たった数時間の思い出が、君の声が頭から離れてくれなくて、あれからずっと君を探している。
授業中。頬杖をつき、毎日窓の外を眺めている僕。
君は今、何を見ているんだろう。
物憂げな空
少し錆びているカーブミラーと白いガードレールだけがある、高架下の寂れた分かれ道。
早朝に散歩するのが趣味だった私の、お気に入りの場所だ。ずっと静かで、人がいるのを見たことがない。
いつも薄暗く、たまに霧がかかる。それが神秘的で、隠れ家のようだった。
今日も歩く。いつもの日常だ。重たい灰色の雲が空を覆っている。高速道路が上にあるため、風と共にゴォゴォと響くような音が聞こえる。
そのうちカーブミラーの頭が見えてくるので、少しだけ早く足を進める…と、風の音がだんだん聞こえなくなってくる。
ああ、この静けさ。これが私の大好物なのだ。この澄んだ冬の匂い、冷えた空気を肺でゆっくりと吸い込む。いつもの安心できる居場所で、正直に息ができる朝5時、私は満ち足りていた。
…ガードレールの下から覗く足を見るまでは。
靴だった。
土を被っているローファー。
その続きに、黒と白の縞模様の靴下と、白い肌が見えた…あたりで、私はもう逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
目を逸らそう。何も見なかったことにしよう。警鐘が鳴り響く頭の中、必死に自分にそう言い聞かせ…
来た道を戻ろうと決意し、その先も見ず振り返った。
「アンタ、こんなとこで何やってんスか?」
…その目の前には、少女が立っていた。
切り揃えられたショートヘアだ。
あまりの驚きで、思わず叫んでしまう。
「うひゃっ、うるさぁー」
少女は表情をコロッと変えて、わざとらしく耳を塞ぐ仕草をしてみせた。 シックな色のネクタイが揺れる。近くの学校の制服だ。
「き…君だって、どこの誰だ。いつからいたんだ」
混乱しながら反射的に聞いたものの、声が裏返った。
何スかその声、と笑いながら彼女はつづける。
「あははっ、ジブンすか?…ジブンは… えー…」
それまで騒がしかったのに、急に口を噤んだ。それから少し間をおいて、「…えっと…わかんないっす」と小さく呟いた。俯いて、彼女は靴先で地面を擦る。
「うぅーん、たしか…なんかを探してて…」
彼女が悩んでぶつぶつ言ってる間に、私はだんだんと冷静になってきた。
そして、自分の背後にあるモノを思い出し……
脳裏に、嫌な可能性が浮かんだ。
例えば、もしこの少女の探し物がお友達だったとしよう。 ……それで、考えたくはないが、もし…背後のアレが、死体で…その友達だったとしたら……
人通りも、車も、監視カメラだってないこんな早朝の田舎道だ。私が疑われるのは間違いないだろう。
彼女がガードレールの下を見る前に、ここから離さないと…
「…すんませんけど、一緒に探してくれません?たしかこの辺にあったんすよぉ…」
そんな私の考えはお構いなしに、困ったような、甘えたような声でそう頼んできた。
風が吹いた。彼女の髪だけが動かなかった。
「どうしてこの辺だって分かるのか、っすか? …ジブンでも謎っす。『何かを落とした』ってのは覚えてるんすけど…」
どうも記憶が飛び飛びで…と首を傾げ、頭を掻きながら周りを見渡している。
頼むから私の背後は覗き込むなよ、と心の中で祈りつつ、(探し物ってのは、友達ではなかったのか)ということに少しだけ安堵した。
依然ピンチなのは変わりないが、その落とし物を一緒に探す体で、この場から離れるのはどうか…と考えついた。
「いいよ、私も一緒に探すよ… 手始めにさ、こっちの分かれ道に行かないかい?」
「マジっすか!あざーす!…でも、なんでこの道なんすか?」
またコロッと変わる表情。仕草の一つ一つも綺麗だ。
カーブミラーに、重たい雲がゆっくりと流れていた。
「ああ…キミのその制服、この先にある中学校のもんだろう?」
特に考えてはいなかったが、彼女のネクタイを見てそう説明した。咄嗟にしては、いい理由を思いついたもんだ。
「ん…そうだったんすかねぇ?なら、この道…案内してくださいよ」
やや歯切れの悪い返事だが、彼女の足が右に向きはじめた。よし、これで離れられる。よかった。案外上手くいった。
私もカーブミラーの真下からやっと動けて、ガードレールに沿いながら歩き始めた。
側溝は見ないようにしよう、と目を斜め下に逸らす。
すると、不意に自分の靴と…横を歩く彼女の靴が視界に入った。 私は言葉を無くす。
…つま先に、土が付着したローファーだ。
中々見ない、黒と白の縞模様の靴下。その続きから少し見える、白い肌。
「あはは。もー、どこ見てんすか?
早く探しにいきましょーよ」
そう微笑む少女の、少し長いスカートが揺れる。
物憂げな空に、良く似合う黒髪だった。
小さな命
わたしの友達は、みなそろって犬や猫や鳥など、自慢のペットを飼っていた。
放課後に皆と帰ると、毎日のように犬が芸を覚えただとか、猫が甘えてきただとか、そんな話が始まる。
…そうなるたびに私は、そっと列より後ろに移動しては、いつもと同じように、校舎裏の柵から飛び出ている葉を数枚千切っていた。
少し柑橘の良い香りがする、特別綺麗な葉っぱだ。
もちろん誰にも見せずにポケットに仕舞う。
家に着いたら、すぐ靴を脱いでそのまま自室に向かった。わたしの愛する、小さな命の為に。
教科書やノートが散らばった机の端にある虫籠、それを開けた。でも少し古いもんで、かたり、と固い音がした。
緑の蓋と透明なケースの隙間から出てきたのは、わたしの小指ほどしかないアゲハ蝶の幼虫。
もう数日前に脱皮は済ませていた。だから、黒と白のかっこいい保護色から、鮮やかな緑と目に見える模様に変わっている。採れたての葉をやると、ふにふにと動く。愛らしくって堪らない。
ここ何週間か、わたしはこの子の世話をしていた。
毎日、同じ場所から同じ葉を取ってくる。同じ時間に与えて、同じ時間に観察する。
わたしが自室以外で何をしようが、何をされようが、この子には関係がない。この子はいつも、同じ調子で私を受け入れ、出迎えてくれる。
そんな変わらない私の日常が、心底愛おしかった。
…でも、今日はいつもと違った。葉を食べない。動き回るだけだ。
私が横で宿題をして日記を書いて、ずうっと付きっきりでいたのに、とうとう食べることはなかった。
考えたくはないが、もし、もし蛹になろうとしているならどうしよう。そうしたら、この子が変わってしまう。姿が変わって、ご飯も住む場所もいらなくなって、用無しになったわたしの元から飛び立ってしまう。それは嫌だ。
…どうして? と頬杖ついて問うても、当たり前に返事はない。もしこの子が犬だったならワンワン、猫ならニャアニャア、鳥ならピーピーと返事しただろうけど、 あいにく、わたしは幼虫のことばを知らない。
気がつくと、私はどこかにいた。がらすみたいな床だ。
「…これはね、ぷらすちっくだよ」
どこからか底抜けに明るい声がする。誰だろう。
「なんと、たべられないんだ」
そんなのしってるよ。わたしにだって分かるもの。
不意に下を見ると、つぎは緑の葉っぱで埋め尽くされていた。あの柑橘の匂いがする。…レモンの葉か。
「こっちは、たべれるよ」
……そんなの、普通は食べないよ。お腹壊すし。と、すこしぶっきらぼうに答えた。
「そうなの。 おいしいのになあ」
声が少し、悲しそうに聞こえた。
わたしは他人の感情を読み取って反応する…というのがいちいち面倒だから、よく疎まれることがある。
…でも、もしかして…こいつは傷ついたのだろうか。ならこういう時、なんていうんだろ。謝る、とか?
わたしには珍しく他人の為に考えて、考えて、なんとなく考えが纏まりかけたとき、後ろからぱり、ぱり、と音がした。
「ほらね。おいしい」
……食ってる?マジで?
おいしいんだ。ええ。その奇行に驚きと、なんだかやばい人なんじゃないかと今更怖くなってきて、軽く混乱してくる。そんなわたしの耳元で声がした。
「ふふ。いつも、きみがくれるじゃない」
それを聞いて振り返っても、もうなんにもなかった。
「たまには、ぼくだって、きみにおしえたくてさ」
そいつは最後に、そんなことを言っていた気がする。
気がついたら、目の前に見覚えのある木目があった。私は机に向かったまま寝ていたらしい。窓が空いていて、月明かりと共にぬるい夜風が差し込んでくる。
手の上には、緑の葉っぱが1枚だけ乗っていた。籠の中は空っぽ。あの子はいなかった。
あの子は羽化して蝶として飛んでいったのか、それとも外に落ちて芋虫として死んだのか、わからない。
硬い葉の感触と共に、柑橘の匂いが口の中に広がる。
小さな命の代わりに残ったそれを、わたしは食べた。