「良いお年を」って、なかなか難しい言葉ですよね。
そもそも「お年」って「年」に「お」をつけるのが難しくて、年なんてモノですらなくて概念なのに、丁寧語の「お」つける。「相手の来年」なので丁寧に「お年」なのかもしれないけど、でも「今年はどんなお年でしたか」はかなり不自然だし、「来年はどんなお年にしたいですか」とはまず言わず「どんな年」だと思う。もちろん「日」や「月」には、「出張に行かれる「お日」はいつですか」とか「今月はいよいよ頑張る「お月」ですね」なんて絶対に言わない。これで外国の人に、「ニホンジン、どういう条件で「お」をつけますか?」とか訊かれたら、完全に文法の無法領域にあって説明できません。
だからか「お年」という表現自体も少なく、実は2パターンしか思い浮かばなくて、あとは「お年はおいくつですか」ぐらい。こちらはさらに、疑問詞の「いくつ」にまで「お」をつけてる。ほかの疑問詞では「お何処に」なんて言わないし、それでは「17歳です」みたいな回答に、「ああ、もう「お17歳」になられたんですね」とも絶対に言わない。
そういう意味では、「良いお年を」そのものも、これはもうこう言うしかなくて、「悪いお年を」と思う相手にも取りあえず「良いお年を」なんて言っとくかというと、そもそもそういう相手には「良いお年を」なんていう言葉が湧出してこないし、もちろん悪いお年をとは絶対に言えない、思ってるならむしろ戦略的に言わない。
でも、そういう相手にあえて「良いおと↓し↑を↓」みたいに言ってやろうという発想が出てくるのが、京都の町屋のヒト。(悠久の二千年の歴史の町の「街ガチャ」は、「偉大だった御先祖ガチャ」と同じで、たぶんいろいろたいへんなんですわな。)
ということで、曖昧さと違和感がにじみ出た「都言葉風」の丁寧感にあふれてるけど、
「皆さま今年も良いお年を!」 (関東アクセント)
動画サイトのおすすめにけっこうな頻度で登場してきて、実際に面白いゲーム配信者さんに「笑顔の時間」さんという方がいて、改名して現在は「笑顔ニコ」、英語名では「Nico the Smile」になっています。
メジャーどころのゲームの配信なのですが、けっこう「○にゲー」がお好きのよう。
で、まず、なんといっても発想が頭おかしい(最上級の賛美) 。こんな発想はしない、できるとも到底思えないようなこと、たとえばゲーム内のアイテムを分解するとかを、いきなり冒頭で「〇〇したいんですよ」とか言いだして始める。しかも、プログラムの方をいじってそれを分解するんじゃなくて、爆弾を数発そことここに置いて...のようなアナログな壊し方で、しかも実際にそれでも分解できちゃう。
あとは、戦闘のセンスも良くて強い。本当にお好きそうで、楽しそうに嬉々として闘ってる。
あとは語り。とてもいい声で、しかも戦闘中もずっと喋ってる。流石なのは、ただずっとわめき騒いているわけではなくて、アクションのコツから登場キャラクターの位置付け、フロムゲーの歴史、そして「いや、それって〇〇が使った学術用語じゃん」みたいのも織り交ぜて、延々としゃべってる。そこにはさりげなく差別発言が入っていたり、「今回はまだ1回も死んでいない」などのお決まりの嘘も毎回のように繰り返すし、あとは何度も唐突に「お尻っ」(註:バックスタブのこと)とか叫んでる。けどそこには「あー」とか「なんというか」などのつなぎの無駄語彙が全くない。
問題は、これを撮影後に原稿読んでアフレコしてるわけじゃなくて、ゲームやりながら、コンマ秒で視覚処理と入力操作をしながら、リアルタイムでこの複数レイヤーの思考をシームレスに喋ってる。本当に局アナのスポーツ実況なんかより格段にグレードが高いし、プロ意識としても凄まじい。しかもこんな動画を、ほぼ毎日上げてる。
どこかでアナウンサー研修とか受けて、ボイトレとかスピーチトレーニングを受けた人なんじゃないかと思うくらいのプロ仕様。いやー、こいつ優秀な人だわ、と毎回思う。
一番の問題は、これほどの才能があるなら社会にリクルートされてなきゃ不自然で、少なくとも自分がテレビ局関係者なら絶対に自局に勧誘するし、ゲーム関連企業なら、製品開発のスーパーバイザーみたいな業務を委託したり、もしも入社するなら経営の一端にもなるとしか思えない。
この人を現実社会への関心につなぎ止められなかった環境は、罪深いと思う。
(まぁ、といっても他人とか社会とか歴史とかの中での意味もしくは物語、とかいう発想そのものが、個人の能力を組織が利益化しようとする資本主義的な装置だ、という考え方が最近流行り始めてるし、そんなの大きなお世話なので、今では個人にとって本当に大切なことを、好きなようにできることの方が実は優秀)
という感じで、毎回高密度にしゃべり続けて「お尻!」とか叫んでるこの動画なんだけど、そのままのテンションで終わることはなくて、見せ場が終わると短く全体を概観したり、しみじみ内省したりして、静かに終わる。
雨の中の涙のように。
鏡が凍てつくほど冷たいと感じる状況って、何だろう…
そもそも鏡って触らないな、汚れるし。
鏡が冷たいって感じる時… (続かないかも)
→ あった、あった。
道路の曲がり角にカーブミラーっていうのがありますよね。あれは円形の凸面鏡になってて、上縁は屋根みたいに庇になってる。
あそこに降り積もった雪が、昼間のうちに溶けかけて再び夜になると、庇から氷柱が下りるんですよ。
(完・全・勝・利)
あの誰もが知っている有名な『雪国』の冒頭は、越後の湯沢温泉に抜ける清水トンネルとのことです。
川端康成といえば文豪で、日本で最初にノーベル文学賞を受賞してる。この書き出しもそうですが、文章が絶品に綺麗で、川端、太宰、三島、谷崎あたりの文章は、読んでて本当に匂い立つような、というか何かを纏って動いているような気がしません?
なんというか、旬の食材ばかりを選んで、丁寧に下処理をして、受け継がれてきた薄口の配分で朝から炊きました、みたいなものが出てきて、ここで味変にラー油かな、とか言ってる料理とは違うんですよね。
でも、書いてある内容は実は結構アレで、この雪国も3文めあたりから、おっさん何書いとんじゃいと言いたくなる。
綺麗な文章を駆使してかなり婉曲に書いてるけど、書いてあるのは実はアレか...みたいな。
川端康成といえば、『伊豆の踊り子』(1926:伊豆の湯ヶ島あたり)、『雪国』(1948)、『千羽鶴』(1952:鎌倉)、『古都』(1962:京都)あたりですけど、特に温泉ものは本当にアレで、特にこの雪国の冒頭なんて、東南アジアに頻回に行くオヤジが機内で考えてることとたぶんあんまり変わらないですよ。
そいえば伊豆の踊り子は1963年にも西河克己監督で実写化されてるんですが、その撮影現場に川端センセーが登場して、御自分でも主演の吉永小百合を追い回していたらしい、とも聞いたような...
原作者なんて、番組の終わりに自分もその店の料理を、たぶんお店のサービスで食べて、怯えた眼でビールもせびる程度でいいんですよ。
でも、綺麗な文章には、主題や作者の頭の中なんか飛び越えるチカラがあるんでしょうねぇ。
「雪あかり」といえばこの文章が出てきて、あの光景が広がる。
祈りって、捧げるなのかな。
捧げるって、敬意をもって相手に望ましいものを提供することのような気がするんだけど、祈りって当方もしくは当方の関係者に望ましいことを提供してください、ってことですよね。
(調べると、例えば定時の儀礼のような祈りは捧げる、御神酒みたいに捧げるでいいよう。)
→ そういえば随分前に神父さんと立ち話をする機会があって、その時に、祈りって人の望み=欲が全開になる場になっちゃうんじゃないんですかね、と無茶苦茶失礼ながら尋ねたら、いやいや、そういう個人的な祈りとは違う神の祈りがあるんですよ、と言ってました。
祈りの生活とかは、こういうあり方のよう。
ということで、もうすぐ初詣。