毛布

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6/8/2024, 1:39:12 AM

世界の終わりに何をするのか考えるのって、その人の本質がいろいろと分かってしまう、大切だけどけっこう難しい問題じゃないですか。自分の価値観やセンス、もしくは欲望や抑圧してきたものがしっかり出てくるわけで。
本気で考えて、一緒に何何を食べたいとか、どこそこで過ごしたいとか、うっかり真面目に口にしたら、「あら、ふーん…(冷たい目)」とかされたりして、これはもう立ち直れませんよ。
それに最悪の場合には、いくら考えても何も思いつかないとかいう救いようのない虚無に直面するかもしれませんし。

でも、もしも世界の終わりが予測できて計画できるなら、たぶんその時世の中はもう大混乱で、無政府状態の地獄ですよね。
世界の終わりには、静かな部屋でとっておきのヴィンテージワインをあけて、しばらく一緒に静かな時間を...なんてのはたぶん無理で、「少しでも生存可能性が高くて人的災害のない安全な場所を探して避難する」の一択になるんじゃないですかね。














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しかし「世界の終わり」って、いきなり世界が消滅したり、突然地球が崩壊する状況はまずなくて、結局は自分の世界が終わる。せいぜい隕石や爆弾が降ってきてその周辺地域が一気に消滅することがありうるかどうか、そうでもなければつまり世界の終わりは個人の終焉、自分の死なんだと思う。
だからその終焉を他者と共有することはなくて、他者の方ではその世界が続いていくし、そこから先はもうその他者の終焉は自分には共有できない。
せめて各自の終焉に寄り添うことができるのかどうかだけど、自分が寄り添う状況とはつまり他者が先になっただけで、やっぱり自分には終焉を共有できず自分の「世界」は続いていく。
終焉はその状況や条件に依存した個人のもので、共有はできないものだろう。

ここで、確かに「この世界の終わりを一緒に」には心中めいたロマンはあるけれど、そういう文化的な背景から考えても、心中には「現世から一緒に消滅してこれ以上他者から干渉されなくなる」ことに意味があるのかもしれないけれど、でもそれもそこまでといえばそこまでで、行った先の地獄で一緒に過ごせるとはまず思えないし、そこから共有される世界が始まることはなく、それ以上は意味はあんまりなさそう。

「世界」は「舞台」のような場なので、社会の方は必ず誰かに、世界は何があっても、終わらずにいろいろと続いていくだろうことだけが確かな救い。

6/6/2024, 10:35:38 AM

最悪な事態が続けざまにいくつも起こることがあって、すると最初の頃に最悪だと思ったことは実は最悪なんかじゃなかったことに気づくし、結局はその場その場の状況で何かしら嫌なことを見つけて、最悪だ最悪だと言ってるだけなんだなとも分かる。

6/2/2024, 12:08:38 PM

正直というか、嘘をつかない、相手との交渉を守る、というのはかなり大切なことだと考えていて、それは一度相手が嘘をつけば、以後はそいつがいうことのウラをいちいち確認しなければならなくなって、大切な事項は文書で貰わなければ進められなくなるし、いくら仕事での付き合いとはいえこれでは面倒くさすぎるので、事情を説明して、交渉業務には不適切で相互にとってリスクになる人物としてなるべく担当を外してもらうことになる。
酷い奴になると最初から言った言わないで逃げるつもりでいるからね。
昭和の頃の船場の商人って、宴席の場で出た交渉でもきちんと納期守って取り引きを成立させていたそうで、そこで粗相があればその仲間内からもう取り引きがなくなったらしい。
その場しのぎに言ったもん勝ちでシラを切る小賢しい対応ってのは、当事者たちから厳しく排除されるし、それが今の政治家たちが死語にしてしまった「信頼」というものだよ。

6/2/2024, 12:22:18 AM

梅雨がなかなかあけなくて、もう7月になってるのに夏が先送りされているあたりのみんなの気分が好きだったりする。
そんなに夏が好きだったのかよ、とか思ってるうちに今度はクソ暑い、暑くてもうダメ、もういつまで残暑が続くんだよ、になる。

3/21/2024, 7:52:42 PM

一人ぼっち、というのは一人法師らしい。
すると二人法師になれば、艶めかしくてあのよろし。

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