あれ?
落ちていく。
ずっとずっと落ちていく。
奈落の底まで。
勘弁してくれ。
夕暮れに母親の呼ぶ声を聞いた。
夕飯の時間だから、すぐに食卓に戻れと。
今夜はハンバーグ。
でもお前のケチャップは緑色。
昨日、ホームセンターで買ってきた。
何故?
落ちていく。
ずっとずっと落ちていく。
奈落の底はお前が望んだ終着地点だ。
満喫してくれ。
黒猫が言う。
お前の人生で一番の誤算は男に生まれたこと。
右足をハシゴにかけて、左足を縄で縛られたまま、大きく息を吸い、小さく悲鳴を上げて。
選ばれた人間であることは、お前をいつもその気にさせた。
空を舞う。
バラバラになる体。嘘にまみれた生活が歪む。
光り輝いた時代にはもう還れない。
私のケチャップは緑色。
空を舞い、撃たれ、落ちてゆく。
不意に目覚め、雄叫びを上げる。
閃輝暗点の視界に揺れる、幾ばくかの幾何学模様。
ジリジリと心が答えを知りたがる。
ねえあなた、一昨日の風は幸せを運びましたか?
落ちていく夢の中で、そんな壊れそうな望みを抱いて。
夫婦喧嘩は犬も食わない、とはよく言ったもんで、夫婦の喧嘩の原因なんて、ホント取るに足りないものが多いと思う。
なんでこんなことが許せないんだろ、と不思議に思うほど、些細な言動が心に引っかかったりする。
これはきっと、血の繋がりのない男女が、一時の熱情に浮かされ、怪しげな外国人に誓いを立てられて、育ってきた環境の違いを押し付け合いながら、いついかなる時もこれを愛すことを約束してしまった呪いなのかもしれない。
結婚は人生の墓場、とか言うしね。
一時の熱情に浮かされて、ってのは、本当に危険が伴う選択になるんだと思う。
お別れしてやり直すことも、クーリングオフのように気軽にはいかないし、かといって試してみなきゃ分からないことだって、世の中にはたくさんある。
結婚って厄介だ。
夫婦って面倒だ。
でも、だからこそ世界が広がって、今までにない経験が出来て、時には心の安らぎを与えられることだってある。
まあ…我が家の場合、だが。
結局のところ、相手選びは慎重に、妥協はせずに、たとえ愛を失くしても思いやりを持って、てのが重要なんじゃないかと。
そんなん分かりきったことかな。
でも何故か、見誤ることが多いんだよな、世の中。
少なくとも、添い遂げてる間にお互い年を取るからね。
若いうちに見た目だけで選んだりしたら…まあ、後悔するよね。
これ、教訓。
自分がもし、こんな性格じゃなかったら、と考える。
例えば、他人を気にし過ぎる性格。
そのくせ、納得いかないことに黙っていられない。
そして誰かとぶつかって、その後で気にしまくる。
これって、どうすればいいの?
こんな性格じゃなかったらな。
言いたいこと言って、平気でいられる性格。
もしくは、言いたいことがあっても抑えられる性格。
…んー、どっちも自分じゃない気がしてならない。
この性格でもう早幾年だしな。
これが自分なんだよな。
どうにもならない。
なら、どうすればいいのか。
まあ、もうこの年だ。
言いたいことは言わせてもらって、出来るだけ、後で気にしないようにしよう。
結局、「ま、いっか」が最強なんだよな。
どうすればいいのか悩むより、どうもならんけど、ま、いっか、で生きていく方が気が楽そうだ。
気楽っていいな。
何があっても気が楽でいられたら。
せっかく生まれてきたんだから、思い悩む時間なんか少ない方がいい。
どうすればいいの、どうにもならない、なんて、終わりのある人生には、無駄な思考回路だと思う。
だって、最終的には絶対どうにでもなるんだから。
少しずつ、少しずつ、自分の性格に「気楽さ」を足していこう。
これが、今出来ることの精一杯。
きっといつか、宝物は奪われる。
誰かが私の宝物を欲しがり、必要とし、私の手から奪ってゆく日が来るだろう。
そんな日が来ないのも困るが、もう少し、いや、まだしばらくは、手元に置いておきたいと願う。
思えば、私だって他人の宝物を奪って、自分の宝物を作り出した訳だ。
強奪だよ。海賊かって話。
そして因果は応報で、今度はきっと自分より若い海賊が、私の宝物を奪っていくのだろうか。
どうせなら、ルフィみたいに芯の通った青年がイイ。
ゴムゴムはいらんが。
ともに船出を迎え、社会の荒波へと漕ぎ出してゆく二人に、きっといつの日か、二人だけの宝物が生まれることだろう。
でもそれは、私にとっても宝物。
そうやって、人生には宝物が増えてゆく。
宝の地図はなくても、海賊王にはなれなくても、生きること自体が、トレジャーハンティングなのかもしれない。
ロウソクの炎が揺れている。
暗闇の中、音も無く、静かに。
炎の周りだけが、ボォと明るくなり、そこに、男の顔が浮かんでいた。
「この場所で、私が体験した話なんですが」
そこは廃病院。男はYouTuberだ。
心霊スポットでの怪談話。
「ここは、地下の遺体安置所です。見ての通り、もう何年も使われていない。それでもね、当時の匂いがまだ残ってるんですよ」
たった一人での生配信。
今までにもたくさんの場所で行ってきたが、ここは格別だった。
絶対に何かいる。
「以前、ここに突撃したことがあるんですよ。その時は、友達と一緒でした。この部屋に定点カメラを仕掛けてね、何か撮れるかと期待したのですが…」
映像には何も映せなかった。
延々と、荒廃した部屋の映像が続き、最後に、カメラを回収に来た友達の姿が映って、終わり。
「おかしいのはね、私がまるで映ってないんですよ。その部屋の真ん中に、椅子を置いて座っていたはずの私の姿が。誰も座っていない椅子だけがポツンと置かれていました。映像の間中ずっと」
この部屋には何かがいる。
あの時、友達もそう言っていた。
だが、映像には何も収められなかった。
「明らかに異常事態ですが、ここにいた私の姿が映ってないと主張しても、その証明が出来ない。結局、動画はボツになりました。それ以外には何も起こっていない、ただの定点映像ですからね」
そして、その後、友達は失踪した。
あれから、彼の姿を見ていない。
心のどこかで、「もしかしてこの廃病院に?」と考えていたことも事実だ。
「そして今、このロウソクの灯りの向こうに、彼の姿を認めました。います。暗闇に薄ぼんやりと、ですが、部屋の隅に佇んでいます」
カメラをそちらに向けるが、何も映らない。
そもそも、ロウソクの灯りが、部屋の隅まで届いていない。
「私はね、この映像が皆さんに届くことを願います。彼が私達に残したメッセージ。この部屋には何かがいる、と。…もしくは、最初から何もいなかったのかもしれない」
ふっと、ロウソクの炎が消えた。
まるで、誕生日に吹き消されたキャンドルのように。
辺りは暗闇に包まれる。
静粛。
この部屋にはもう、誰もいない。
いや、最初から何もいなかったのかもしれない。
きっと彼の映像には、最初から誰も何も、映ってはいないだろう。