私は世界に一人だけ。
私の命も世界に一つだけ。
だけど、私と同じ「人間」は数え切れないほどいて、命もそこら中に散らばってる。
それは、貴重なの?かけがえのないものなの?
代わりはいくらでもいるんじゃないのかな。
現に、日々たくさんの人達がこの世を去ってゆくが、世界はまた新たな生命を生み出し、補充は完璧だ。
秀でたスキルがある訳でもなく、世のため人のために役立っている自負もない。
さて、世界に自分は必要か?
はっきり言って、必要ないだろう。
貴重でもないし、代わりはいくらでもいる。
だけど、家族にとっては、自分の代わりはいないはずだ。
貴重とは言わないが、必要とされている。
生きる意味は、きっとそこにあるんだろう。
世界を俯瞰で見た場合、ナンバーワンはおろか、オンリーワンでいることさえ難しいと思う。
広大な花畑でオンリーワンの一輪であることは、それだけの価値を自分に見い出しているということだ。
自分の価値…それは、誰かの息子であり、旦那であり、父親であるということ。
そう考えると、花畑ではなく、花束としてまとめられた時にこそ、自分の存在に価値が生まれるのかもしれない。
そういえばあの歌も、舞台は花屋の店先だったな。
世界はあまりにも広すぎる。
そこで秀でようとするには、人生は短すぎる。
それなら、自分が少しでも輝ける場所を作り上げよう。
ほんの小さな舞台でいい。
その舞台の上で、その花を咲かせることだけに、一生懸命になればいい。
毎年の健康診断で、聴診器を当てられ、「心雑音がします」と言われてきた。
なんだそれ?だからなに?と受け流してきたけど、ここに来て、いよいよ対峙しなければならない時が近付いている。
この、胸の鼓動をこれからも刻み続けるためには、遅かれ早かれ手術が必要だとか。
そー言われたら、嫌ですとは言えない。
生きてなんぼだから、どれだけ痛みを伴おうが、お金がかかろうが、やるしかないじゃないか。
そんな気持ちで Google や YouTube で調べると、術後は激痛と闘いますとか、いらんこと教えてくれる。
もう、目を瞑ってその日を待つしかないな。
いくつになっても、怖いもんは怖く、痛いもんは痛い。
まあ、その感覚を失くしたら、長生きなんか出来ないんだろうけど。
とはいえ、それほど長生きしたい訳でもない。
人生って、量より質だと思う。
めっちゃやりたいことやって二十歳で死ぬのと、牢獄に入れられたまま百まで生きるのなら、迷わずに前者を選ぶ。
ただ、ある程度満足できる質のイイ人生を送るには、それなりの時間が必要だと思うんよ。
半世紀じゃまだ足りてない。
若人が「胸の鼓動」という言葉からイメージするものと、アラフィフがイメージするものが同じ訳がない。
そう考えると、人生はそれなりに長い。
胸の鼓動に青春を紐付ける時代もあれば、すべてが疾病に通じてしまう晩年もある。
どちらが良かったかと問われれば答えは明白だが…いや、自分の胸の鼓動の大切さに気付けている今も、そんなに悪くない。
言いたいことはほとんど言えたから、この辺で。
うまくいかない日もある。
それは誰だって同じだろう。
落ち込んで、自分が嫌になって、地下鉄の階段をトボトボと降りる夜。
同じように俯き、同じように一点を見つめ、スマホを一心に操作するサラリーマンの群れ。
目にしている情報は、心躍るものだろうか。
暑さも落ち着いてきたし、そろそろ出掛けるハードルも低くなってくるかな。
熱波にやられずに外に出られる季節が来れば、きっと今より週末が楽しみになる。
うまくいかない日もあるけど、週末にワクワクをセッティングして、心躍るように自分を盛り上げてゆこう。
どーでもいいことだが、昨日は「終末」について書いて、今日は「週末」。
同じシュウマツでも、こんなにも意味合いが変わるのか。
楽しみな「週末」の方が、毎週やってきてくれることを思えば、私達はもっと人生に期待してもいいんじゃないのかな。
地下鉄のホームでも、週末にやれることをいっぱい夢想して、ニヤついて、スキップでもして心躍らせていたい。
ヤバいオッサンだと思われるのは承知の上で。
さあ、終わりの時が来た。
響き渡る終末の鐘の音を聴け。
祈りなど届かない。救いの手は及ばない。
悪い夢のように、世界は音を立てて崩れてゆく。
アポカリプティックサウンド。
「ヨハネの黙示録」に記された、7人の天使達が吹くラッパの音のような、不気味な怪音が街中に鳴り響く。
世界の至るところで発生しており、終末の刻を告げているとも言われ、未だに説明のつかない現象のひとつだ。
思えば、この世界が存在すること自体が不可解でしかないのに、この世界の終わりなんて、誰の理解も追いつくはずがない。
案外、ある日サクッとこの世界は終わるのかもしれないな。
天使達がラッパを吹きながら天から降りてきて、「うわ、可愛いー」なんて言ってる間に、まさに驚天動地の天変地異が、目の前で繰り広げられるのかもしれない。
映画の中だけの光景だと思っていたものが、合成でもCGでもなくリアルとして、この目に焼き付けられるのかもしれない。
例えば、彼女にフラレたとか、上司に怒鳴られたとか、財布を失くしたとか、手術をしますとか、もーどーでもいいね。
もし、世界の終わりが来るのなら。
最近肩こりが酷くて、毎朝腰痛もツライんだけど、もーどーでもいいや。
ある日サクッと終わるかもしれない世界で生きているんだから。
それよりも、やりたいことをやろう。
人を愛して愛されよう。美味いもんを食おう。
時計はいつだって時を告げる。
それは、楽しいことの始まりだったり、ツライことの終わりだったり、何かが変わる瞬間を教えてくれる。
そのひとつひとつを確認しながら、いつ終わりが来ても後悔しない生き方を選びたい。
あの日の海へ、あなたと還りたい。
一緒にいることを許されていた、あの頃へ。
遠く、水平線を滑りゆく船に、
「いつか、あの船に乗って知らない国へ行きたい」
と、あなたが言う。
「全部捨てていくの?」
「あなただけは捨てないわ」
「それは光栄だね。ところであの船は、さんふらわあって言って、北海道に渡る定期フェリーだよ」
「そうなの?」
「うん。富良野か美瑛辺りで、二人でのんびり暮らす?」
「それも…悪くないね」
二人とも、寒いのは苦手だった。
でも、二人なら、工夫して意見をぶつけ合って、何だって乗り越えてゆける、そう信じてた。あの頃は。
「さんふらわあ」の船体には、大きな太陽の絵が描かれていた。
水平線の彼方から昇る朝日のように希望に満ちて、きっと僕達を北の大地へと連れて行ってくれる。
そこで住みづらくなったら、今度は本当に知らない国へ、もっと大きな船で渡ればいい。
あなたの突然の心変わりは、何の前触れもなく、そんなすべての夢を粉々にした。
さよならを告げて僕の前から去っていくあなたの後ろ姿に、あの日の海辺で見たあなたの後ろ姿を重ねて、これは現実で、あの日のあなたが僕の前から消えてしまうんだってことを実感していた。
海の向こうへ渡ることを約束したあなたが。
力を合わせて寒さに打ち勝とうとしたあなたが。
あの日、あなたが砂浜で拾って僕にくれた貝殻。
今も僕の部屋の片隅で、過ぎた日々を思い出させる。
「あなただけは捨てないわ」
いつか、あの海へ返しに行こう。
ずっとそう思いながら、僕の部屋の片隅で、静かな波音を奏でるのを聴いている。
この貝殻は、まるで今の僕のように、単なる抜け殻でしかないのに。