掲げるようにして運んだトレイをテーブルに置くと、ふたつ並んだマグカップの片方を、取っ手が目の前に来るように君はくるりと回してくれた。礼を言って引き寄せると、
「いいよいいよ、こないだのお礼なんだから」
君は向かいにすとんと腰を下ろす。ふわりと舞った髪の毛から甘い香りがして、目の前の黒い液体を僕はひと口流し込んだ。
「で? 話って?」
黒い瞳がじっとこちらを見た。テーブルの上で、お揃いのマグカップからゆらゆら湯気が立ち昇る。彼女は猫舌なのだった。
「うん、あのね」
コーヒーが君の適温まで冷める頃、どんな僕らになっているだろうか。
『コーヒーが冷めないうちに』
ㅤ鈴の鳴るような凛とした音に私は頭を起こした。慌てて窓外を見れば、最寄り駅まであと二駅だ。
ㅤ視界の端に銀色が揺れている。ドア横に立つ乗客のキーホルダーが、リュックと袖仕切の間で揺れてはぶつかり、チリンチリンと音を立てていたのだ。
ㅤドアが開き、リュックを背負った人が降りていく。冷たさを増した風が、ふわりと車内を浸す。ただとてつもなく、淋しい夢を見ていた。
ㅤ隣でゲームに興じる若者が、肘を私にゴリゴリ押し付けてくる。淋しさの底で泣く私の幻影が、私からぐんぐん遠ざかる。
ㅤ姿勢を正す振りで肘を押しやり、零れた涎をそっと拭った。
『パラレルワールド』
あなたの左の手首から、電子音がピピっと響く。手持ち時間が減ったのか、歴史がひとつ重なった合図か。
離れようとした頬を両手で挟んでこちらを向かせ、愛しいやわらかさを食みながら私は考える。
時計の針が重なって。ゆらゆら浮かぶ、昨夜と今夜のあわい。
『時計の針が重なって』
足音だけで、吐いた息の音階だけで、なんとなくわかるよ。今夜の君の調子ってやつがさ。
ㅤ残業ちょっと多いんじゃない?ㅤあの上司の無理難題はその後どうなったのかな?
ㅤなにより僕の気がかりなのは、君の心の揺れ方。独り言の質と食事の中身、欠伸の数——そのへんが整ってれば、ひとまずは安心だからね。
早く髪を乾かしてこっち来て。今夜はもう一緒に眠ってしまおうよ。
ㅤお気に入りのあのコロンを僕に吹きかけたら、ずっとくっついててあげるから。
ㅤ背中をもぎゅもぎゅ揉んでても、しっぽをじっと握っててもいーよ。君が眠ってしまうまで。
『僕と一緒に』
たとえばピーカンや大雨だったら、約束通り出かけていたのかもしれない。日焼け止めやら大きめの傘やら、ちゃんと前の日に準備して。どうしようかなあと悩むうちに約束の時刻が過ぎていた。
ㅤ天気のせいにすんなよな、と洋ちゃんは言った。
ㅤハナから来る気無かったでしょう?、と航くんは言った。
どちらも正解な気がするし、どっちも違う気がする。あたしは曖昧に頷いて、最近お気に入りのコーラルピンクのリップの隙間から雲みたいな煙を吐いた。
『cloudy』