ㅤどこでもいいから旅に出たかったあなたと、小説に書かれた場所に行ってみたかった私。あの頃の二人は今思えば無敵だった。私が言った行き先の通りに、あなたがツアープランを組む。思い立った翌週には私たちは大抵空を飛んでいた。
ㅤ初めての海外はマレーシアだった。治安も物価も悪くなかったクアラルンプールの、二十八階のネオンのひとつに私たちは溶け込んだ。
ㅤ私がどうしても行きたいと言った、両端に蛍の群れがとまる河下りのツアーは、新婚旅行カップルだらけで、図らずも傷心旅行と化した私の背景に、彼らのあらゆる仕草や言葉が容赦なくグサグサ刺さった。
ㅤ近くのレストランで夕食を摂り、日没を待って舟の列に並ぶ。複数の方言が混じったようなヘンテコな日本語を操るツアーガイドは、私たちをずっと同性カップルだと思っていたらしい。
「闇の中でんこそ、光は綺麗に輝けるんやわなぁ」
ㅤ楽しんでね~、と朗らかに手を振られ、私たちは小さな舟に乗りこんだ。遠くから祈りの声が響く。左右に目を凝らせば、忙しなく瞬く光が闇の中で溶けては浮かび上がった。
ㅤ心もとないほど小さな舟は、銀河の只中を静かに進んでいく。
『光輝け、暗闇で』
ㅤ空を覆う雲の隙間から、一筋の陽射しが届く。どんな森の奥深くにも、それは確かに降り注ぐ。
ㅤ限りある記憶の、限りない煌めき。きっと私は、今もあなたを呼吸している。密やかな昏い森で、馬鹿げた鼓動を繰り返して。気紛れのように差し出される光と、思い出だけを吸って吐いている。
『酸素』
ㅤあなたは海の香りがした。それをあなたに伝えたことはないけれど。
ㅤ気づいたら夜が明けていた。照りつける日差しに目を開けると、缶ビールを手にした斜めのあなたが視界に入る。
ㅤ開け放した窓の外へ、低い羽音を響かせて虫が飛び去っていく。真夏なのに、早朝の風が少し冷たかった。
ㅤ自分たちの他に部室には誰もいなかった。先輩たちはどこに行ってしまったのだろう。
「大丈夫?ㅤ寝ぼけてんの?」
ㅤなんと言っていいかわからず「うん」と返した私に、あなたは小さく息を吐き「おはよ」と微笑む。瞳の奥で、波のように揺れるプリズム。
ㅤあの日から、あなたを想うとなぜか海の香りがする。
ㅤそれは遠い昔、同じ場所にいた印。太古からつづく、生き物としての記憶の海。
『記憶の海』
ㅤこの部屋の、古ぼけたポスターを眺めるのが好きだった。大きな黒い丸の中で、二つ並んだ黒い点の下に三日月のような赤い口が笑う。小さな子供が描いたと思われる絵だった。『母の日ありがとうセール』という文字が掠れている。
「毎度ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
ㅤ隣の部屋から、哲子さんの声がする。いつも先に隣でお話をして、それから私のところに来てくれるのだ。早く終わらないかなと、私は椅子の上で足をブラブラさせた。お気に入りの花柄のスカートがふわりと揺れる。
「おかあさん、もうしないって約束したじゃないの。ほら、お店の人にもう一度謝って」
ㅤやがてやってきた哲子さんに言われるがまま、私は頭を下げる。そうすれば一緒に帰れると知っているから。
「ほら、帰りますよ」
ㅤそうだね、私たちのおうちに帰りましょう。
ㅤ私を迎えに来てくれるずっと大切な子。ただ君だけと。
『ただ君だけ』
ㅤこの世界は、時にいろんなものに例えられる。旅だとか海だとか。それは誰にでも分かりやすく、明るい光が満ちているはずで。けれど実際は、微妙に違う旅をして、みな違う海を漂っている。
ㅤ同じ地図を手にしても、描く航路が同じでも。同じ言葉を使っても、同じ水に浸かっても。埋まらない歪みがある。
ㅤきみの理解とぼくの理解は、どうしたって交わることはない。単純で絶対の事実にぼくは気づいてしまったから。寂しいけど、厭でたまらないけど、そういうものだから。
ㅤぼくは自分の船に戻るよ。どこへ向かうとも知れない船に。きみと違う未来なら、どこだって同じ闇。
『未来への船』