『子供の頃の夢』
オリンピックの陸上選手
――これは幼稚園の頃の夢
弁護士
――これは小学生の頃の夢
作家
――これは中学生の頃の夢
海外赴任の日本語教師
――これは高校生の頃の夢
言語学の研究者
――これは大学生の頃の夢
どこまでが「子供の頃の夢」と言えるのだろう。
幼稚園と小学生の頃の夢は、周囲に適性があると言われて漠然と思っていたやつだ。
中学以降はひとつの方向性が見える。
日本語という言葉そのものに強く惹かれているのだ。
成り立ち、歴史、語源、スラングにネット用語、流行語ets.
どれも興味深くて調べても調べても底が見えない。
さて、このうちのどれかひとつでも叶っているかどうかは……内緒。
『どこにも行かないで』
駅のロータリーに立っていた。
どうやら約束の時間には遅れてしまったようだ。
とあるアプリを通じて知り合った人達と、今日あることを決行するつもりでいた。
それなのに、どうして自分はこうなんだろう。
いつもいつも、ここぞという時にヘマをする。
今からでも彼らを追うべきか。
でも、追いついた時には事は終わっているかもしれない。
そうしたら、彼らの邪魔をしてしまう。
いつものように優柔不断に迷い続けていると、電源を切り忘れていたスマートフォンから着信のメロディーが鳴った。
「もしもし?! 早まるなよ! そこにいろよ! どこにも行くな! わかったな!」
こちらが一言も発しないうちに、言いたいことだけ言って切れてしまった。
あの人はいつもそうだ。
私の言う事なんてこれっぽっちも聞いてくれやしない。
あの人だけじゃない。
みんな私のことなんて見向きもしないし、どうでもいいんだ。
アプリで知り合った人達だって、私を置いて逝ってしまったし。
どうしようかと考えていると、ショートメッセージが着信を告げた。
「どこにも行くなよ、頼むから」
もう一度だけ、思いとどまってみようか。
あの人に、どうして私の居場所を知ってるの?と聞くために。
『君の背中を追って』
くるくるくるくる回っている。
友人の飼い犬が。目の前で。
自分の尻尾を飽きることなく追いかけて、延々と。
これは、尻尾が自分の体の一部だと思っていないんだろうか。
目の前でユラユラ揺れる何かを、狩猟本能で追いかけ回してる?
そんなことを思ってじっと眺めていたら、どんどん犬が移動していく。
くるくるくるくる回りながら、柵の外へと。
いけない!
あのままだと外に出てしまう!
買い物してくる間、飼い犬をみていてくれと頼まれたのだ。
私は慌てて、回り続ける犬の背中を追いかけた。
『好き、嫌い、』
好きか嫌いかで二分化して、好きな物だけに囲まれて、好きな者だけと付き合っていけたら、もっと心安らかに暮らせるだろうか。
むかし何かで読んだような朧げで不確かな記憶だけれど、階級や収入など同じ条件の人々を集めてしばらく放置すると、その中で上下関係ができるそうな。
そこで最下層にされた人を集団から外し、またしばらく放置すると新たに最下層扱いされる人ができる。
何度繰り返しても最後の一人になるまで続く。
社会性やマウンティング云々は置いといて。
もし、好きな人たちだけと付き合ったとしても、その中でうっすらと欠点や不満が出てくるのだろう。
いま私を取り囲んでいる数多の物や者があるからこそ、友人や親しい人たちの長所に目が行くのかもしれない。
ということは、日頃「あーヤダなー」と思うことも必要なのか。ヤダなー。
『雨の香り、涙の跡』
古書店員は本棚の奥でじっと息を潜めていると思われがちだが、実は様々な場所に出向かなければならない仕事だ。
古書の買取のほとんどが、売主のもとへ赴いて行われる。
本にとって湿気は大敵。
梅雨から秋にかけては特に神経をとがらせる。
今日も僅かな雨の香りに顔を顰めながら、売主の家へと急いだ。
保存状態も気になるし、雨が降り出す前に運び出したい。
書庫へ通され、埃とカビ臭さに目を瞑る。
黙々と作業を進めながら、一冊の本に目が止まった。
いや、正確には、ある本の奥付に。
愛書家によくある蔵書印。
その一部が滲んでいた。
ぽたりと落とされた雫か何かで。
注意深く本を検めると、頁の間に小さな紙切れが1枚挟まっていた。
ひっそりと隠すように。
そこに書かれた言葉を、ここに暴くことはやめておこう。
雨の香りが強まった気がする。
そっと元に戻して、また作業を再開した。