『夢見る少女のように』
週に一度、施設に預けた母に面会する。
ここの職員さんは皆よくしてくれているようで、入所当時に比べたら嘘のように落ち着いている。
ほんの半年前までは、地獄の日々だった。
汚物にまみれ、徘徊し、奇声や怒声をあげて暴れる。
元気な頃を知っているだけに辛く、諦めきれず、なにより言葉の通じない獣のような姿に恐怖した。
いつまでこれが続くのかと、悪臭が染みついてしまった部屋で、出口のない奈落に落とされたように毎日を過ごしていた。
見かねた友人が提案してくれて、ネットでカタログを取り寄せ、何箇所も足を運んで、払えるギリギリの予算の中から、ここを見つけた。
「お子さんがみえましたよ〜」
そう声をかけられても、母は反応しない。
薄く微笑みを浮かべて、車椅子に座って、テラスの硝子ごしに庭を眺めている。
空いている椅子を引き寄せ、隣に腰掛けた。
その手を取って声をかける。
母はもう、私を認識していない。
それでもよかった。
こざっぱりとしたショートヘアで、清潔な衣服に身を包み、けぶるような瞳で、なにか楽しい夢でも見ているような。
少女に戻ってしまった母の姿が、美しかったから。
『さあ行こう』
「雨、やみませんね」
ひとつ空けた隣の席に座っていた人が、軽くため息をついてそう話しかけてきた。
次のバスが来るまで、まだあと15分ある。
バス停のある道路が見える、一人掛けの席。
大学病院のエントランスで、会計処理が終わってもぼんやりしていた。
その人も私と同じように雨宿りを兼ねて時間潰しをしていたようだ。
私は頷き、「そうですね」と答えたものの、それ以上何を言っていいのかわからず空を見上げた。
「《ウミガメのスープ》という話を知っていますか?」
「水平思考クイズのひとつ、でしたっけ」
そう答えると、その人は「おや」と少し楽しそうな顔をした。
私もその手のモノは好きなので、それが伝わったのだろう。
出題するので、ひとつやってみないかという流れになった。
「ある男が、長年探し続けていた人物と出会いました。ところが男は彼女にそのことを伝えません。なぜでしょうか?」
「男と女性は知り合いですか?」
「いいえ」
「二人は過去に接点がありましたか?」
「いいえ。きちんと認識したうえでの接点はありませんでした」
「二人が出会った場所に関係がありますか?」
「はい。いい質問ですね。その点は重要です」
「それは病院ですか?」
「はい」
私は会計済みの領収書と処方箋、それから入院の手引きに目を落とした。
「男は女性の健康状態を把握していますか?」
「……はい」
そうですか、と呟く。
こう見えて、水平思考クイズは得意なのだ。
「バスが来たようですね」
男の声に顔を上げる。
立ち上がった男は、私に手を差し出した。
「さあ、行きましょうか」
『水たまりに映る空』
家の前のアスファルト。
少し窪んだところに雨水が溜まって、雨上がりの空が反射していた。
垣根の内から、なんの気なしにそれを眺めていると、ちょっとオカシイことに気がついた。
風もないのに水面が揺れる。
さざ波が立つように何度もゆらゆらと。
時折チャプンと音まで立てて。
気になったので外に出て、真上から覗き込んでみた。
キレイな青空。雲ひとつない。
覆い被さるように屈み込んで、顔を近づける。
空と水たまりの間に割り込むように。
それでも私の顔は映らなかった。
『恋か、愛か、それとも』
嘗て。
酷く責められ、怒鳴られ、罵られたことがある。
弁明も口答えも許されず、相手の誤解や勘違いを正すことも拒否されて、ひたすら詰られた。
それが原因で医者に通うことにもなった。
思い出したくもないはずなのに、朝から晩まで、それどころか夢の中にまで私を責める声が、怒号が、響き渡っていた。
苦しくて、本当に苦しくて、消えてしまいたいと、自分を消してしまいたいと思い詰めていたけれど。
ある時ふと、何がきっかけかは思い出せないが、相手を消せばいいのでは?と考えが逆転した。
そこからは相手のことばかり考えた。
まずは生活習慣を調べなくては。
何時に起きて、何時に食事をして、何時に出かけるのか。
何曜日にどこに行くのか、どれくらいそこにいるのか。
何を好み、何を嫌い、どう行動するのか。
本人よりも詳しくならねば。
目的は果たせないから。
こんなにも誰かのことを考え続けるなんて。
まるで恋か、愛か、それとも――
『約束だよ』
よく考えたら、明確に「約束」という言葉を口にしたのは、何歳の頃までだったろう。
それこそ、幼稚園か小学校低学年くらいまでじゃなかったろうか。
「じゃあね」
「またね」
そんなふうにふんわりと曖昧に、再会を匂わせることはあるけれど。
待ち合わせなどではない、秘密の共有や、互いの深いところに踏み込んだ将来に渡る何かや、胸に誓いあうような何かを交わしたことは――ないな。
「約束だよ」
“永遠”にも通じる、どこか甘い響き。
こんな言葉を交わせる相手が、まずは欲しい。