『小さな勇気』
ずっと気になっていた店があった。
雑居ビルの1階の角、薄暗くて日当たりの悪い場所にある小さな喫茶店。
古書店街に行く度に、その路地を通って駅に向かっていた私は、チラチラと店の様子を窺いながらも入る勇気が出せずにいた。
2月のはじめ、寒波がきていてこれから雪が降るかもしれないという日。
いつものように後ろ髪を引かれながらも通り過ぎようとした私に、強い北風が吹きつけた。
低層ビルの間を通った風は思いの外勢いがあり、煽られた私はよろけて膝をついてしまった。
寒いし、痛いし、恥ずかしいし――なんかもう、いいや。
妙なスイッチが入ったのか、小さな勇気というよりは蛮勇のような勢いで、私はこれまでずっと横目で見るだけだったその店に足を踏み入れた。
カランコロン、と軽やかなベルの音。
薄暗いけれど暖かい店内。
寒かったので、紅茶とホットケーキを頼んだ。
ほんのり甘い香りに顔を上げると、昔ながらのシンプルでまあるいホットケーキが3段重なっていて、上にはアイスクリームディッシャーで掬い取られたらしい丸いバターが乗っている。
蜂蜜とシロップのどちらがいいか尋ねられたので、シロップにした。
ナイフがふんわりとした抵抗の後、飲み込まれる。バターの僅かな塩気とシロップのやさしい甘さ。
どこか懐かしく感じる味だった。
紅茶を一口飲んで、ほうと息をつく。
入ってよかったなぁ。
『わぁ!』
「わぁ!」
部屋へ入るなり、短く感嘆の声を上げた弟子を微笑ましく見る。
ダマスクスの白睡蓮、水蝋樹の花、カミツレ、真紅のアネモネ、スミレ、柘榴の花、エグランタインの薔薇、水仙。
色とりどりの花に目を奪われたようだ。
これから花弁と花粉と蜜を分け、エキスを抽出していく作業を始めれば、こんな可愛い反応はすぐに消えるだろう。
二、三日後には「うわぁ……」と、うんざりした顔をするかもしれない。
まあ、花の美しさを楽しめるのも今のうち。
それに、心根が曇っているか澄んでいるかも、これからの作業に影響するのだ。
まずはお茶でも淹れようか、と未だわぁわぁ言っている弟子を放って竈に向かった。
少し前このアプリを開いたら、ハート♡の数がゼロになっていて、お気に入りも消えていた。
お題の投稿どころじゃなくて、何度かやり直した後、一旦落ち着こうとアプリを閉じた。
少し時間をおいて再度アプリを開いたら、ハート♡の数がゼロからひとつずつどんどん増えていって、元の数まで戻った(多分)
お気に入りも復活していた。
なんだったんだろう。
『瞳をとじて』
母の愛に勝るものはないと人は言う。
それは無償の愛だと。
なぜ父の愛については触れられないのだろう。
父親の愛情は無償ではないのか?
淡いベージュに塗られた天井をぼんやりと見上げながら、そんなことを思う。
ああ、駄目だ。
考えたり、感じたり、思い出したりする時間が多いのは危険だ。
せめて対等に話ができる誰かがいれば、少しは気も紛れるのだろうが、この部屋には私とこの子だけ。
この子が生まれたその日から、この子が私の世界になり、この子を中心にすべてが回っている。
この子が消えてくれたらいいのに、と思うことがたまにある。
そして、そんなことを思う自分が嫌になる。
だから私は大丈夫なふりを、幸せなふりをする。
酷く疲れるけれど、そうしないととても怖いことが起こりそうな気がするから。
眠る子の顔に目をやる。
じっと見ているうちに、自然と手が伸びる。
指先が触れそうなその時――この子が笑った。
突然パッチリと目を開けて、泣きもせずにキャッキャと声を上げて笑った。
慌てて手を引っ込めて、ぎゅっと強く握る。
瞳を閉じて、何度も自分に言い聞かせる。
もしも本当にこの子が消えてしまったら、私の世界が、私のすべてが失われるのだ、と。
『あなたへの贈り物』
普段は触ったこともない漢和辞典を開く。
ネットで流行りのものを検索する。
親戚や知人友人たちを思い浮かべる。
姓名判断のサイトを熟読する。
伴侶と二人でそれぞれの希望を出し合う。
両親や義両親から口出しされる。
――それに抗う。
唯一無二のものを贈りたいと思う。
なんとか幾つかに絞ったものを親友に見せる。
ダメ出しされる。
なんだコレは、落ち着け、と諭される。
唯一無二なのは名前じゃなくて、あなたそのものなのだと気づく。
もう一度、伴侶と話し合う。
ふたりでうんうん唸りながら、ありったけの願いを込める。
親となった私たちからの、
初めてのあなたへの贈り物は、
こうして決まったのです。